「肥後の国衆一揆」で激しい攻防戦のあった「田中城の戦い」
熊本県和水町にある田中城は、1587年に起こった「肥後の国衆一揆」で「田中城の戦い」が行われた城であり、城兵が大軍を相手に必死の抵抗を行った痕跡が今に残る城跡でもあります。田中城の築城年代は不詳ですが、古代和邇氏の末裔で肥後の国における最古の豪族である和仁氏累代の居城でした。「田中城の戦い」で豊臣方の軍が作成した「辺春・和仁仕切陣取図」では、田中城を取り巻く木柵や物見やぐら、攻撃に参陣した小早川氏・立花氏・鍋島氏などの陣地が描かれています。陣取図を見ると、西国の戦国大名を動員した大きな戦いであったことがわかります。今回は、城を巡る激しい攻防があった「田中城の戦い」を中心に、肥後の国人たちが立ち上がった「肥後の国衆一揆」について取り上げていきます。
佐々成政の圧政に、肥後の国人たちが立ち上がる
豊臣秀吉の命を受けて肥後の領主となった佐々成政は、もともと肥後の各地を領有していた国人たちを苦しめる検地などの強引な政治を行います。こうした圧政に反発して隈府城の隈部親永が挙兵すると、それに呼応するように肥後の国人たちも兵を挙げ、田中城の和仁氏も坂本城の辺春親行とともに挙兵しました。こうして膨れ上がった一揆軍の勢力は、佐々成政の軍だけでは鎮圧することが不可能になり、成政は豊臣秀吉に援軍を要請します。
豊臣秀吉、肥後の国人の壊滅へ乗り出す
朝鮮出兵を考えていた豊臣秀吉は、九州をその兵站基地として見ていたため、九州の豊臣政権に反発する勢力を根絶やしにしてしまいたいという思いがありました。この一揆を好機ととらえた豊臣秀吉は、小早川や立花、鍋島などの西日本の諸大名を動員して大規模な一揆討伐軍を編成し、鎮圧と反発した国人勢力の壊滅に乗り出します。
和仁・辺春氏、田中城で豊臣方の大軍と対峙する
数々の戦いで武功を立ててきた肥後の国人たちでしたが、西日本の諸大名で編成する豊臣方の大軍が相手では多勢に無勢で、次々と肥後の国人が滅ぼされていきます。そして和仁氏の領有する土地にも豊臣方の大軍が迫ってきます。劣勢に立たされた和仁氏は、辺春氏とともに田中城に立てこもり、小早川・立花・鍋島などの大名で構成する連合軍と対峙しました。
山全体が要塞となっている田中城
田中城はほぼ独立した丘陵の山に築かれ、山全体が要塞となっている城です。標高約50mの山頂部にある主郭部全体に切岸を巡らせ、そこから派生している尾根の部分は掘切となり、尾根の先が出丸となる構造となっています。出丸は主に西、北東、南の三方にあり、西は捨曲輪とも呼ばれています。そして山の側面には無数の雛壇ようになった遺構があり、多くの兵が攻めてくる兵を待ち伏せして抵抗した痕跡を伺い知ることができます。
城兵勇敢に戦うも、田中城落城する
豊臣方の軍は、西に小早川秀包と安国寺恵瓊、南に立花宗茂と筑前・筑後衆、北に鍋島直茂と肥前衆が約1万の大軍で田中城を包囲しました。対する和仁・辺春の籠城軍は1千であり、戦力の差は歴然としていました。和仁・辺春の軍は戦力的には劣勢にも関わらず勇敢に戦い、2ヶ月持ちこたえましたが、安国寺恵瓊の調略により、辺春親行が裏切り、田中城は落城しました。
豊臣方の鎮圧軍によって、ことごとく殲滅させられた肥後の国人たち
肥後の国衆一揆の鎮圧軍に対し、「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばした豊臣秀吉。田中城落城後の豊臣秀吉への書状では、和仁・辺春一族の大半は討ち取られ、そのうちの4人の首が送られてきたことが記されています。他の国人たちもことごとく殲滅され、田中城落城の翌年にはこの一揆の大将格であった隈部氏も攻め滅ぼされ、「肥後の国衆一揆」は終結しました。
国人勢力を一掃し、肥後国の支配体制を強化した豊臣政権
一揆の終結後の豊臣秀吉は、反抗した肥後の国衆をことごとく滅ぼし、佐々成政にはその責任をとらせる形で切腹を命じます。そして肥後の北には加藤清正、南には小西行長と秀吉子飼いの大名を配置し、肥後国における支配体制を強化しました。織田家臣時代からライバル関係にあった佐々成政を滅ぼし、肥後国の国人という反抗勢力を一掃したことで豊臣政権はより盤石になるかのように思われました。しかしより強力な権力を手に入れたことで、豊臣秀吉の独裁を助長し、朝鮮出兵のような失策で、政権の弱体化を招く結果になったことは誰もが知る歴史の事実です。
のどかな農村にある田中城跡
和水町和仁という緑豊かでのどかな農村集落にある田中城跡。現在は国の史跡に指定されており、きれいに草刈りされた城址公園として整備しています。小高い丘の山頂にある田中城の主郭部へ向かう登山道を歩いていくと、まるで棚田のような雛壇が無数に広がる曲輪や空堀、捨曲輪、出丸などを目にすることができ、とても守りやすい構造をしていたことがわかります。
歴史の転換期に起きた悲劇を語る田中城跡
田中城は守りやすい城ですが、小さな独立した丘に立地しているため、城の内部から容易に包囲する大軍勢を見ることができました。そのよく見える大軍勢の脅威と戦った城兵の気持ちは、いかばかりでしたでしょうか。城に立て籠った約千人ともいわれる城兵の大半は戦死し、生き残った者も落城後に処刑されるという悲劇的な運命を辿りました。爽やかな風の吹く農村の小高い丘で、日本の歴史の転換期に、多くの犠牲を伴った戦いがあったことを、田中城跡は静かに語っているかのように感じました。
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