古くから地元の人々に親しまれている大津山阿蘇神社
熊本県南関町にある大津山阿蘇神社は、鎌倉時代初期の1199年に、阿蘇神社の建磐龍神と阿蘇都媛神の2柱を勧進して創建した神社です。阿蘇神社は数多くの分社があり、大津山阿蘇神社はその分社の一つで、肥後国の北部にあたる南関の地に鎮座しています。大津山阿蘇神社は南北朝時代から安土桃山時代にかけて、この地を治めた肥後の国人である大津山氏の庇護のもと発展させていきました。今回は神社を守り発展させてきた大津山氏の歴史と古くから地元の人々に親しまれてきた大津山阿蘇神社に迫っていきます。
大津山氏が尊崇した大津山阿蘇神社
鎌倉時代初期に創建された当初の大津山阿蘇神社は、現在の南関第一小学校の椋の木の場所に鎮座したといわれ、現在はその地を「下つ宮」と称しています。その後南北朝時代には、大津山氏が南関の地を治めるようになり、現在の大津山を本拠地と定めます。大津山氏は分社が500社以上もある阿蘇神社を尊崇し、本拠地の近くにある大津山阿蘇神社を厚く保護しました。3代領主の大津山経稜が現在の南関町葉山に改築し、朝夕参拝するほどの信仰をしていたそうです。そして5代領主大津山資秋が、本拠地である大津山の麓に社殿を移したと伝えられています。
大津山阿蘇神社の境内に生目神社の御祭神を勧請
戦国時代の1580年にあった高良台合戦では、激戦を大津山氏が制するものの、武勲のあった家臣の金丸五兵衛が左目に矢を受けるなどのたくさんの死傷者を出しました。大津山資冬は金丸五兵衛の武勲をたたえ、負傷した武士の全快を祈って大津山阿蘇神社の境内に日向国にあった生目神社を勧請したといわれています。生目神社は、眼病平癒の御神徳が厚い神社として知られており、現在も多くの人々の信仰を集めている神社です。生目神社の御祭神を勧請した大津山生目八幡宮でも、目の病気や視力回復を祈願する人々が多く参拝しています。
大津山を拠点にした大津山氏
大津山阿蘇神社の背後にそびえる大津山には、神社を尊崇し、発展させていった大津山氏の居城大津山城がありました。1395年に初代領主の大津山資基によって築かれた大津山城は、巨大な堅堀と掘切に守られた堅固な城です。南関は古くから交通の要所であり、重要な土地でした。そのため街道が良く見えて敵の動きが察知できる場所に大津山城が築かれています。戦国の乱世に入ると大友氏の肥後目代である小原鑑元や龍造寺氏の軍勢に一時城を終われたこともありましたが、見事に大津山城を取り戻すことに成功し、大津山氏の命脈を保ちました。大津山氏は大津山城を拠点に、肥後と筑後にまたがる国人領主として約200年間君臨しました。
豊臣秀吉からかろうじて領地を安堵される
関白・太政大臣である豊臣秀吉の天下統一の手が肥後国まで伸びてくると、大津山氏の領主としての地位が脅かされるようになります。豊臣秀吉の恭順を示さなかった島津氏に対して、秀吉は1586年に九州遠征を行います。その際、豊臣秀吉の軍は交通の要所である南関を通るルートを選びました。7代当主の大津山家稜は、秀吉の軍を筑後境で出迎え、大津山氏の菩提寺である正法禅寺を宿として提供したと伝えられています。豊臣秀吉は「本来なら国々の小領主は認めないのだが、わざわざ出迎えて先導を務めるのは感心だ。城の周囲50町の領地を認めてやろう」と言いました。こうして大津山氏は、かろうじて豊臣秀吉から領地を安堵されました。
佐々成政の謀略で滅亡した大津山氏
豊臣秀吉から領地を安堵された大津山氏でしたが、その後肥後国の領主となった佐々成政によって領地を取り上げられました。不本意のうちに大津山城を退去させられた大津山一族でしたが、その頃の肥後国内では、佐々成政の圧政に対する国人たちの不満が高まっていました。不満が最高潮になり、肥後の国衆一揆が始まると大津山氏も挙兵します。国衆一揆に苦しんだ佐々成政は、大津山氏に対して和議に応じるのであれば、3千石を与えるという懐柔策を打ち出します。しかしこれは佐々成政の謀略であり、会談に出た大津山家稜を佐々氏は暗殺します。こうして幾多の危機を乗り越えてきた大津山の国人、大津山氏は謀略によってあっけなく滅亡しました。
気持ちがリフレッシュする大津山阿蘇神社境内
大津山阿蘇神社は、大津山の登山口にあたる場所から境内が始まっており、江戸時代中期に建てられた鳥居を通って坂道を歩いていくと、大きな楼門があります。ここから本殿まで石段があり、その段数は108あるそうです。108と言えば除夜の鐘でつく108回が思い浮かびますが、ここでも、仏教文化とうまく織り合った神仏習合を感じ取ることができます。約400年の歴史があるといわれる楼門は彫刻が繊細で、訪れる参拝客を魅了します。本殿に向かって楼門をくぐると、石橋の先に石段、上には本殿、両脇には御神木の杉がある素晴らしい景色が広がります。そして石段を登った先にある阿蘇神社の健磐龍命と阿蘇津姫命を祀る本殿は、南関の町を展望できる高さにあり、大津山の豊かな自然が参拝者の気持ちをリフレッシュさせます。
大津山氏の遺徳が偲ばれる大津山阿蘇神社
大津山阿蘇神社の境内には、「藟石(つづらいし)」があります。これは大津山城の基礎となった石で、石の霊力で南関突破を願うものだそうです。小さな国人領主ながらも、必死にその命脈を守ろうと数々の困難に立ち向かった大津山氏は、南関地方の郷土史においても英雄的存在なのではないでしょうか。最期は佐々成政のだまし討ちで滅亡してしまいましたが、大津山氏が守り発展させていった大津山阿蘇神社は、時の為政者や地域の人々に大切に守られていきました。大津山阿蘇神社の境内を歩くと、代々にわたってこの地を治めてきた大津山氏の遺徳が偲ばれてきます。皆さんも大津山阿蘇神社を訪れてみてはいかがでしょうか。
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