大和朝廷が築いた古代山城の鞠智城
熊本県山鹿市にある鞠智城は、築城年は不明ですが7世紀に大和朝廷が築いた城です。熊本県菊池市に南北朝時代に菊池一族が築いた菊池城がありますが、今回取り上げる古代に築かれた鞠智城とは関係ありません。二つの城は同じ「きくちじょう」といいますが、混同しないようにお願いします。鞠智城は近年行われている発掘調査により、10世紀中頃まで約300年間使用されたものと推測されています。また発掘調査で数々の発見があり、その中でも驚くべき発見は、国内の古代山城では似通った例がないという4基の八角形建物跡が見つかった事です。平成6年度から用地購入が始まった歴史公園鞠智城の整備事業では、鞠智城の特徴ともいえる八角形建物が復元され、現在では鞠智城のランドマーク的存在となっています。今回は古代のロマンが溢れる鞠智城について掘り下げていきます。
唐や新羅の侵攻を想定して築かれた鞠智城
鞠智城が築城されたとされる約1300年前の大和朝廷を取り巻く東アジア情勢は、非常に厳しいものがありました。大和朝廷は、友好的な関係にあった朝鮮半島の国、百済を復興するために援軍を送りました。しかし663年の「白村江の戦い」で日本は唐・新羅の連合軍に敗れてしまいます。この敗北で百済復興の夢は潰え、日本は朝鮮半島における影響力を失いました。さらに悪いことに、軍事的な劣勢にある日本へ、唐や新羅の大軍が攻め込む危険性が増大し、対馬海峡に緊張が走ります。大和朝廷は、北部九州に政庁のある大宰府を守るために、大野城や基肄城などの前線基地となるような城を築き、後背地となる菊池川流域の地域に、兵や物資の支援基地となる鞠智城を築きました。
豊かな経済圏を形成した菊池川流域に築かれた鞠智城
菊池川は、阿蘇の外輪山にあたる菊池溪谷を源流とし、菊池、山鹿、玉名を通って有明海に至る一級河川です。菊池川の山間部から中流域は洪水が多かったこともあり、肥沃な土地が形成されました。そのため古代から農業が盛んになり、一大穀倉地帯となります。中流域から下流域は流れが緩やかなこともあって、水運が発展しました。そして盛んになった農業、水運を通して豊かな経済圏が形成され、菊池川流域の一帯は、装飾古墳に代表されるような多くの優れた文化を生み出しました。大和朝廷は律令制の下、菊池川流域に山鹿郡、菊池郡、合志郡、玉名郡などの役所を置き、機能的で強力な軍事拠点となる鞠智城を築城しました。鞠智城は熊本県内唯一の古代山城で、大陸からの侵攻に備える目的で築城されましたが、当時の農業や水運、経済、文化の先進地帯である菊池川流域の支配を強化したい大和朝廷の狙いも築城の目的ではなかったのかと思われます。
歴史公園鞠智城として復元・整備
菊池市街地から北西の山に向かって自動車で約14~5分行ったところに「歴史公園鞠智城」があります。古代に存在していた鞠智城は、不明な点も多々ありますが、発掘調査などのたゆまない努力の結果、徐々にわかってきた部分もあります。標高約90〜171mの米原台地にあった鞠智城は、自然の崖という天然の要害を利用した城で、城の面積は55ヘクタールありました。平成6年に「歴史公園鞠智城」として整備が開始され、米蔵や兵舎が平成9年、八角形鼓楼が平成11年に復元されました。平成16年には国の史跡に指定され、朝鮮半島から伝わった当時の最新の土木技術を駆使した造りを見ることができます。
鞠智城温故創生の碑
鞠智城温故創生の碑は、鞠智城のシンボルとして建てられました。中央には遠く東国から九州の地にやってきた防人、その周囲には百済の貴族や防人の妻子などの像があります。台座には、故郷の家族への思いが切々と詠まれている防人の歌が刻まれています。防人はたいてい3年で交代でしたが、年限を過ぎても故郷へ帰れない人もいたと言われています。
八角形鼓楼
発掘調査で見つかった八角形建物跡を復元した八角形鼓楼は、韓国のニ聖(イーソン)山城に類似のものがあるたけで、国内の古代山城では類をみない建物です。八角形にしたのは、八方位を宇宙の象徴とする道教の宇宙観が影響されたのではないかと思われています。八角形鼓楼は高い場所から太鼓で味方に合図を送ったり、見張りをしたりするなどしていたのではないかと考えられます。大和朝廷が、軍事的優位に立つために八角形鼓楼を、15.8mもある高さに建設したと推測されます。
米倉
鞠智城跡では、石を規則正しく並べて土台にした21棟の礎石建物跡が見つかっています。その中でも米を保管していた米倉のあった場所では多量の炭化米が出土しています。米倉は、鞠智城が兵站基地として機能するために重要な建物でした。現在「米倉復元建物」として建てられており、当時の建築技術を見ることができます。米倉は重い荷物に耐えうる瓦葺きの頑丈な造りで、湿気を防ぐための高床の校倉造り、ねずみの害を防ぐためのねずみ返しを設けるなど、随所に大切な食料を守るための工夫が施されています。
兵舎と板倉
歴史公園鞠智城の敷地内には、兵舎と板倉も復元されています。「兵舎」は1棟あたり50人の防人が寝泊まりしていたと言われ、板葺きの屋根、土壁、土間の床、突き上げ式の窓など任務にあたった防人の住環境を再現しています。また兵舎の近くには、武器庫として使用していた茅葺きの板倉があります。
謎多き古代の山城、鞠智城
続日本紀には、698年に「大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治(修繕)せしむ」と記述されています。この記述だけでは鞠智城をなぜ修繕したのか明確な意図はわかりませんが、大和朝廷の軍事拠点として鞠智城を重要視する姿勢がみて取れます。近年の発掘調査などにより新たな発見があったとはいえ、まだまだ謎が多い鞠智城。皆さんも鞠智城を訪れてみて、古代の謎解きに参加してみてはいかがでしょうか。
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