多くの人々から親しまれている島原城
長崎県島原市にある島原城は、松倉重政が江戸時代初期の1625年に築城した連郭式平城です。島原の乱で、島原城とその城下町が大きな被害を受けた時期もありましたが、江戸時代を通して島原藩の藩庁が置かれ、現在の島原市街地が発展する基礎を築きました。明治の廃城令により、城の建造物は撤去されましたが、戦後には天守閣などが復元され、現在は島原市のランドマーク的な存在感となっています。今回は島原城の築城から島原の乱の頃までの歴史に触れながら、現在も多くの人びとから親しまれている島原城の魅力に迫っていきます。
森岳城を近代的城郭の島原城に生まれ変わらせた松倉氏
大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川氏の天下が磐石になり始めた頃、これまでの有馬氏に変わって、松倉氏が1616年に島原の地を統治するようになります。有馬氏の当主であった松倉重政は、最初有馬氏が使っていた日野江城を居城としていましたが、場所が領地の南側に寄っていて不便でした。そこで松倉重政は、丘陵地に立地していた森岳城に目を着けます。この森岳城周辺は、戦国時代に九州の覇権をかけて龍造寺氏と島津氏が激突した「沖田畷の戦い」が起きた場所があります。当時の森岳城の一帯は「沖田畷の戦い」で勝敗を分けた湿地帯が広がっていました。築城の名手でもあった松倉重政は、この湿地帯をうまく生かして、大規模な改修工事を施し、森岳城を近代的な城郭を備えた「島原城」に生まれ変わらせます。
松倉重政が7年の歳月をかけて築いた理想の城「島原城」
島原の領地に入った松倉重政には、九州の外様大名の牽制とキリシタン対策という大きな任務を江戸幕府から与えられていました。そのため松倉重政は7年の歳月をかけて、九州の有力大名の居城に引けを取らない「島原城」を築きます。総石垣でかつ独立式層塔型5重5階という天守、そして3基の三重櫓、38基の平櫓などが配置された荘厳な外観は人々を圧倒させるものがありました。また本丸と二の丸は廊下橋で結ばれ、その先の北側にあった三の丸には御殿がおかれ、城内には上士屋敷、外には下士屋敷を置くことで、城の守りを強固なものにしました。島原城は、城づくりに造詣が深い松倉重政が理想とする当時の先進的な築城技術を結集した城でした。
島原城築城で、苦しめられる領民
幕府から与えられたキリシタンや九州の諸大名に目を光らせる役目を担い、島原を一大物流拠点にして経済的に発展させようと意気込んだ松倉重政。そのため松倉氏の象徴となる島原城の築城に心血を注ぎ、財を惜しみなく使いました。しかし松倉氏の石高は4万石しかなく、その経済基盤から考えると、不相応の壮大な規模の城郭と城下町でした。島原城築城という一大プロジェクトのしわ寄せは、領民に向かい、松倉氏は領民に過酷な年貢の徴収を行いました。そして島原城の完成後に起こった天候不順による飢饉は、領民をさらに苦しめました。松倉重政は年貢を納めきれない者に対してもきびしい刑を科したため、領民の不満は高まっていきます。松倉重政の死後、息子の勝家が当主となりますが、きびしい年貢の取り立ては続きました。
島原の乱や雲仙岳の噴火の被害を受けながらも、島原藩主の城として輝いた島原城
松倉氏は島原の領地に入封して以来、キリシタンへの弾圧と領民への圧政を一貫して続けました。そして1637年には、松倉氏による圧政や、江戸幕府によるキリシタン弾圧が領民やキリシタンの反発を招き、日本最大規模の一揆といわれる島原の乱を起こしました。島原の乱は、キリシタンの一揆とされていますが、弾圧に耐えかねたキリシタンに加え、松倉氏の圧政に苦しめられていた領民も、多数一揆に加わっていました。カリスマ性のある天草四郎が総大将となり、有馬氏の旧家臣団が軍事的な差配を行っていたため、一揆軍は手強い勢力に成長します。これを受けて松倉氏は、軍を派遣して一揆の鎮圧をはかりますが失敗し、一揆軍の勢力に圧倒された松倉勝家は、島原城で籠城しました。この籠城戦で城下町は大きな被害を受けてしまいます。その後は幕府方の援軍が到着したため、原城で戦が展開します。多数の死傷者を出してようやく一揆軍が鎮圧されましたが、その責を問われて当主の松倉勝家は斬首、松倉氏は断絶の処分が下されました。その後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と譜代大名が入れ替わりながら島原を統治します。雲仙岳の噴火などで、城や城下町が大きな被害を受けた時期もありましたが、松倉重政が天塩にかけて築いた島原城は、江戸時代を通して島原藩主の居城としてその輝きを放ちました。
多くの城の復活を望む声で、復元された島原城
明治時代になり武士の世が終わると、島原城は廃城となり、建物は取り壊されました。島原城跡は石垣と堀が残り、その敷地は畑や学校として利用されていました。しかし城の復活を望む声も多く、戦後の高度経済成長時代に突入した昭和35年には「西の櫓」、昭和39年には「天守閣」が復元されました。その後「巽の櫓」や「丑寅の櫓」、「長塀」なども復元され、現在では島原市の観光名所となっています。天守閣には、島原の乱に関する資料や島原城の主となった歴代藩主、島原城に関する文物が展示されていて、往時の様子を偲ぶことができます。また築城当時から残る石垣は、緩やかな曲線を描きながら垂直近くに立ち、城の防衛と美を兼ね備えた土木建築物です。島原市と長崎県はこの石垣を将来に残すために1億1000万円かけて修復を行っています。築城に造詣が深かった松倉重政が丹精込めて築いた石垣は、現代に生きる我々にも大きく胸を打つものがあります。平成3年に起こった雲仙普賢岳の平成大噴火で島原地域は大変な被害をうけましたが、島原城は復興にむけての住民の心の支えとなりました。島原城は島原の乱や雲仙岳の噴火などの過酷な歴史もありましたが、現在は島原市のシンボルとして多くの人々の糧となっているのは間違いありません。皆さんも島原城を訪れてみて、その素晴らしさを発見してみてはいかがでしょうか。
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