昭和30年代をテーマにした豊後高田昭和の町
大分県豊後高田市にある豊後高田昭和の町は、昭和30年代をテーマにした商店街です。50歳以上の昭和30年代を知っている世代は懐かしいと言い、平成生まれの若い世代もこの豊後高田昭和の町を訪れるとなぜか懐かしさを感じるといわれています。大量消費の物質文明を生きる我々にとって、何かしらの郷愁がこの商店街にあるように感じます。地元の商店主、商工会議所、市役所が衰退した商店街を再生するために起こしたアクションが、「豊後高田昭和の町」でした。今回は、昭和30年代の賑わいをとりもどすために、豊後高田の人々が取り組んでいった軌跡に触れながら、年間40万人の観光客が訪れるようになった豊後高田昭和の町の魅力について迫っていきます。
歴史と商業の伝統がある豊後高田市
大分市から車で1時間半ほどのところにある豊後高田市は、国東半島の付け根にあたります。古代の国東半島は、大和朝廷で権勢を誇り、かつ渡来人であった秦氏が多く移り住んだ地域です。また秦氏が持ち込んだ新羅系仏教が根付いた土地でもあり、熊野磨崖仏や富貴寺、真木大堂などに代表される仏教文化が花開きました。秦氏と国東半島との関係に触れると長くなるので別の記事で触れていきたいと思います。そんな歴史と伝統を持つ国東半島にある豊後高田は、古くから瀬戸内地域への港があったことから、商家が立ち並び町が発展していきました。江戸時代以降には、国東半島随一の商業都市となり、現在の中心市街地が形成されていきます。そして明治以降の産業の近代化で豊後高田は、京阪神を行き来する船舶の寄港地、国東半島を結ぶ交通の要所として、さらなる発展を遂げます。昭和30年代には、約300もの店舗が立ち並び賑わいを見せていました。
衰退した商店街の再生へ動き出した人々
昭和30年代から日本にスーパーマーケットが登場し、全国に普及していくと豊後高田の中心商店街を取り巻く環境が急速に悪化していきます。郊外に大規模な店舗が進出することにより客を奪われ、また旧国鉄の駅が離れていたことも商店街の衰退に拍車をかけました。「犬と猫しか歩かない」といわれるほどの典型的な衰退パターンに陥った豊後高田の商店街でしたが、それでも商売を続ける人がいました。そして商工会議所や商店主を中心に商店街を再生させようとした動きがありました。平成4年には商工会議所が大手広告代理店を使って「豊後高田商業活性化構想」などの商店街活性化の構想を作ります。一旦商店街を壊して、町の真ん中にドーム型の球場や商業施設を作るなど、バブル経済の余韻を感じるような内容でした。このような大規模再開発を伴う構想は、人口2万人ほどの小都市ではそれを実現する資金がなく、幻となって終わりました。しかしこのような失敗が、商店街再生への大きな道標となったのは間違いありません。その後、豊後高田の中心市街地を活性化していこうと考える若者が集まり立ち上がります。
協力・賛同の裾野を広げる「昭和の町再生会議」
商工会議所の若手職員が商店主に声をかけたのをきっかけに、同じ思いを持っていそうな4人が集まり、自分たちの商店街について話し合いました。話し合いを重ねていった結果、昭和30年代の商店街が賑わいを見せていた頃を、イメージしながら計画を進めていくことになります。そして賛同や協力の裾野を広げるために、商工会議所のまちづくり部会の1つとして、「昭和の町再生会議」を立ち上げます。「昭和の町再生会議」は、最初の4人から同じ思いを持つメンバーが増え、市職員や大分県職員もオブザーバーで参加するようになっていきました。週1回、本職の仕事を終えてから商工会議所に集まって話し合い、終了が夜中の1時、2時になることもありました。再生会議を立ち上げた商工会議所の職員と商店主は、毎晩のように会議のための資料を作成して話し合いの準備をします。「商店街を何とかしないといけない」という地元の人の強い思いが、精力的な行動となって表れていきました。
多くの観光客が訪れるようになった豊後高田昭和の町
平成10年には、大分県の商工労働観光部長を経験した永松博文が市長に就任します。商店主、商工会議所、中小企業の若手社長たちは、今まで練り上げてきた商店街再生への支援を市長にお願いします。永松市長は全国的に商店街の再生がほとんどうまく行っていないという事実を承知したうえで、「昭和の町」による商店街再生を決断しました。そして商店街に昭和感を出すことを始めました。商店街の建物の約70%以上は、昭和30年代以前に建てられた建築物です。そのような建物は、軒先を覆い隠すパラペット(看板建築)を取り除き、木製やブリキ製の看板を取り付けたり、アルミサッシの扉を木製の扉に替えたりするような工事が比較的容易でした。ある程度の店舗が昭和の趣を取り戻した平成13年9月に、「昭和の町」オープニングセレモニーが開催されました。マスコミの報道が功を奏して、予想より多くの観光客が訪れました。その後、観光施設や案内人の充実をはかっていき、オープン時は点であった「昭和」が線になり面へと広がっていきました。
懐かしさとともに商業の伝統を見る豊後高田昭和の町
平成14年には「昭和ロマン蔵」がオープンします。昭和10年頃に米蔵として建てられ、旧高田農業倉庫だった建物を市が改修し、「昭和ロマン蔵」として使用されました。昭和を感じるものが展示されており、何かしらの郷愁に誘われる空間が広がっています。その中にある「駄菓子の夢博物館」は、福岡県太宰府市の日本一の駄菓子屋おもちゃコレクターといわれる人物を説き伏せ豊後高田市に移ってもらいました。館内では6万点が展示されており、ほとんどの人はどれか懐かしいものに出会えます。その他にも豊後高田昭和の町には、ボンネットバスが走り、店舗には店の歴史を語る貴重なお宝と個性豊かな品物が並んでいます。そして笑顔でもてなす昭和の商人が訪れる人をお待ちしています。古くから交易が盛んで、商業の伝統を受け継いできた豊後高田。豊後高田昭和の町には、昔から受け継いできた商人の精神を感じることができます。皆さんも、豊後高田昭和の町を訪れてみてはいかがでしょうか。
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