菅原道真の没後に霊魂が戻ってきたと確信した松崎の地に建てられた天満宮、天神信仰が根付き時代の変遷とともに発展していった防府天満宮

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天満宮

 

菅原道真との由緒や防府の歴史を今に伝える防府天満宮

山口県防府市にある防府天満宮は、御祭神の菅原道真にゆかりのある天満宮です。学問の神様である菅原道真を祀る防府天満宮には、合格祈願や学業成就で参拝に訪れる人が多く、境内にあるたくさんの絵馬には、多くの願いが込められています。防府天満宮は、京都の北野天満宮、福岡の大宰府天満宮と並び日本三天神のひとつと呼ばれています。境内には見どころが多く、春風楼や歴史館、芳松庵など、菅原道真との由緒や防府の歴史を今に伝える文化財があります。今回は天満宮の創建に至った御祭神菅原道真との由緒に触れながら、防府の町とともに発展していった防府天満宮の魅力に迫っていきます。

防府天満宮にある春風楼の床下にある「組物」

菅原道真の大宰府への道中に立ち寄った防府

菅原家は、平安時代にたくさんの学者を出した名家でした。そんな菅原家に生まれた道真は、幼い頃から神童と称され、33歳で学者としての最高位であった文章博士にのぼりつめます。また当時の宇多天皇の信任を厚く受け、政治の世界でも要職を歴任します。そして55歳の時に右大臣まで昇りつめますが、家格を越えた異例の昇進は、多くの人から妬みを買うようになります。そして謀略によりあらぬ疑いをかけられ、菅原道真は大宰府に左遷されてしまいました。こうして菅原道真は失意のうちに大宰府に行くのですが、その道中に立ち寄った場所が防府でした。

防府天満宮の春風楼から見る防府市街

防府滞在中の菅原道真を厚くもてなした土師氏

菅原道真は、船で海路を通って大宰府に向かいました。多くの地に寄港しながらの休み休みの船旅でおよそ55日かかります。防府は菅原道真の船旅の本州の最後の寄港地であり、菅原氏と同族の土師氏が国司を務める周防の国の国府でもありました。菅原氏は古代氏族の土師氏を祖先に持ち、地名にあわせて「菅原」に改姓したとされています。あらぬ疑いをかけられた菅原道真は、朝廷からは冷遇の憂き目にあいましたが、菅原氏と血縁のあった土師氏は、防府滞在中の道真を厚くもてなしました。菅原道真は現在の防府天満宮がある酒垂山に登り、「九州には行かず、松崎(防府)にとどまって無実の知らせを待っていたい。」との想いを込めた歌を詠みました。しかし菅原道真の「防府にとどまりたい」という気持ちは、当然叶うはずもなく、防府に心を残しつつ、左遷の地大宰府へ旅立ちました。

防府天満宮の観音堂

菅原道真死去の翌年に、御霊を祀る社殿を建てる

菅原道真は901年に大宰府に入り、それから2年後の903年に疑いが晴れることなく、失意のうちに大宰府で亡くなります。菅原道真が亡くなった日、防府では海に光が立ち上ぼり、近くの山の頂には雲がたなびいたと伝わっています。菅原道真は生前に「たとえ九州の地で命を落とすことになっても、魂魄は必ずやこの地(防府)に帰るだろう」と家宝の金鮎十ニ尾を国司の土師信貞に託していました。人々は菅原道真の霊魂が生前に表した意思のとおり、防府に戻ってきたのだと思いました。亡くなった翌年の904年、土師信貞は松崎の地に菅原道真の御霊を祀る社殿を建てます。この社が防府天満宮の起源であり、日本で最初に創建された天満宮でもあります。

防府天満宮の楼門

無実を伝える奏上を起源とする防府天満宮の御神幸祭

 菅原道真の死後、謀略に関わった人たちが次々と変死します。930年には平安京の清涼殿が落雷を受け、要職についている多くの人が負傷しました。また醍醐天皇が、体調を崩して崩御します。そしてこのような不幸は菅原道真の祟りであると、恐れられるようになり、947年に京都の北野天満宮が創建されます。北野天満宮は、菅原道真を神として祀り、その御霊を鎮めようとしました。また菅原道真の亡くなった20年後に、菅原道真を右大臣の地位に復し、993年には正一位の左大臣、太政大臣の地位が贈られました。そして松崎の社の創建から100年目の1004年に一条天皇の勅使が防府に遣わされ、「無実の罪」が奏上されました。この事を起源に防府天満宮では、無実の知らせを菅原道真に伝える御神幸祭が行われるようになり、現代では防府を代表する伝統ある祭りとなっています。

防府天満宮の大階段

時代を追うごとにグレードアップさせてきた防府天満宮

防府天満宮の宮司は創建から江戸時代末期まで土師氏の子孫が務め、その伝統や文化を守り継ぎました。また源義経が甲冑を寄進したり、この地を支配した大内氏や毛利氏から篤い崇敬を受けたりするなど、多くの歴史的名高い人物が防府天満宮を信仰しました。社殿などが火災により焼失することもありましたが、為政者による造営も多々あり、防府天満宮は時代を追うごとにその規模をグレードアップさせていきます。神仏習合の影響を受けた大専坊跡や数々の社は、この地に根付いた天神信仰の偉大さを感じます。

防府天満宮の春風楼

五重塔の建立工事から途中で楼閣様式に変更して建てられた春風楼

境内にある春風楼は、1882年に長州藩10代藩主毛利斎熙が五重塔の建立を思い立ちましたが、領民の一揆や幕末の動乱などで資金調達がうまく行かず、工事を中断せざるを得ませんでした。明治に入ってからは五重塔ではなく、楼閣様式に変更して建てられ、明治6年に完成しました。春風楼の床には、五重塔として使うはずだった「組物」が使われています。床下に当時の面影が偲べる春風楼の楼上からは、防府市街地が一望でき、防府天満宮とともに歴史を歩んできた防府の町の、現在の発展ぶりを見ることができます。

ゆっくり見ていくと含蓄を感じる防府天満宮

正月の初詣、11月の御神幸祭などの行事があり、1年を通してたくさんの参拝者が訪れる防府天満宮。この地には菅原道真と地元の人たちの厚い絆を感じることができます。菅原道真は日本の喫茶文化に貢献した人物でもありました。そのことにちなんで、防府天満宮の参道沿いに茶室の芳松庵があります。落ち着いた庭や茶室が醸し出す空間は、他では得られない静寂感があります。芳松庵の一角には高杉晋作や木戸孝允ら幕末の志士たちが密議を行っていた暁天楼が再建されています。もとは天満宮門前市にあり、老朽化により解体されたのですが、昭和59年に現在の場所で復元が果たされました。菅原道真が紡いだ文化に、新たなる歴史を生み出した史跡があることに深い感銘を受けます。観光ボランティアの山田まゆみさんは「防府は駆け足ではなく、ゆっくり見てほしい」と語っています。駆け足で見るだけではもったいない含蓄が、防府天満宮にはあります。皆さんも防府天満宮を訪れてみて、その良さをじっくり観察してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

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