坂本龍馬らが長崎を拠点に行動した亀山社中の跡地、龍馬ゆかりの地を訪ねながら幕末の息吹きを感じる亀山社中跡

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亀山社中

 

亀山社中の遺構として伝わる亀山社中跡

長崎県長崎市にある亀山社中跡は坂本龍馬をはじめとする20数人により結成した亀山社中の遺構として伝わる建物がある場所です。1865年に薩摩藩や長崎の豪商である小曽根家の援助を受けてできた亀山社中は、日本初の商社とされており、グラバー商会と銃器の取り引きを行うなどの商業活動や物資の輸送、航海訓練などを行いました。今回は様々な活動で、後の海援隊結成へと発展していった歴史に触れながら、現在その跡地とされる場所に、「亀山社中記念館」として展示されている亀山社中について迫っていきます。

風頭公園から見た長崎市街

武士の他に様々な身分の人もいた亀山社中

幕末期の長崎の亀山では「亀山焼」という焼物が焼かれており、坂本龍馬たちはその窯で働いていた人々の住居跡を根拠地としました。この「亀山」という地名に人々の集まりを表す「社中」を加えて、「亀山社中」という名前にします。また坂本龍馬に代表される脱藩浪人が多かったため、非常に元気がよく、彼らが着ていた白袴にちなんで「亀山の白袴」と呼ばれます。亀山社中は、多数を占める坂本龍馬らの武士のほかに、町人・医者・町人・農民などで構成されており、身分制度が厳しかった当時としては、先進的な組織となります。薩摩藩から月に3両2分の給金を受けていた彼らは、徳川幕府の打倒をはかる行動をしながら、商業活動に従事しました。

風頭公園の坂本龍馬像

日本を動かすビッグビジネスをやり遂げた亀山社中

坂本龍馬が、仲の悪かった薩摩藩と長州藩が手を結ぶ薩長同盟の仲立ちをしたことは有名ですが、亀山社中が経済面で果たした役割も、大きいものがありました。徳川幕府打倒への姿勢を先鋭化する長州藩は、幕府との決戦に備え、性能の優れた西洋式の武器を増強する必要がありましたが、幕府による厳しい監視下にある長崎では、長州藩が主体となって武器の取り引きをすることが出来ませんでした。そこで亀山社中は、後ろ盾となっている薩摩藩の名義で、長州藩の軍艦や武器を購入する一方、米不足に陥っていた薩摩藩に長州藩が米を提供するという商売を行います。結局は薩摩藩は米を受け取らなかったようですが、このような経済活動が、薩摩、長州両藩の和解を促していったと言っても良いでしょう。亀山社中は、薩長同盟への動きを加速させるようなビッグビジネスをやり遂げたのです。

亀山社中記念館にある坂本龍馬の写真

薩摩藩の意向を示す行動をとった亀山社中

亀山社中は、高い操船技術を生かして戦争にも参加します。1866年に勃発した第二次長州征伐では、薩摩藩名義で買った長州藩所有の船ユニオン号を、操船技術に熟達した亀山社中の石田英吉が長州藩の要請を受けて船長となります。石田英吉は、巧みな航海技術を生かして、関門海峡の門司周辺にあった幕府側砲台に砲撃を加え、これを破壊し、長州軍の門司上陸を支援しました。また亀山社中が商いで仲介した西洋式の銃は、性能面で幕府が保有している銃を上回り、戦況を長州藩優位に進めることが可能になりました。この頃の薩長同盟は密約で、薩摩藩は表立った行動はとりませんでしたが、坂本龍馬らの亀山社中を通じて、薩摩藩の意向を示すことができました。

龍馬のブーツ像から長崎市街を眺める

亀山社中の伝統は海援隊に引き継がれ、やがて日本の経済界を支える大企業へ

亀山社中の目覚ましい活躍は、土佐藩の耳にも入りました。当時の土佐藩の実権を握っていた参政の後藤象二郎は、亀山社中のリーダー格で元土佐藩士の坂本龍馬を引き込むと有利になると考え、坂本龍馬と会談します。こうして坂本龍馬は後藤象二郎と手を結び土佐藩に復帰し、亀山社中は「海援隊」と名前を改め、土佐藩の組織となりました。「海援隊」が出来た1867年の11月に隊長に就任した坂本龍馬は暗殺されてしまいますが、翌年の明治元年に解散するまで各地で活動しました。亀山社中・海援隊の組織からは、後の外務大臣となる陸奥宗光や初代衆議院議長の中島信行などの多数の人材を生みました。また亀山社中・海援隊をベースとして、土佐藩士の後藤象二郎が土佐商会、その後に岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社を設立します。これらの組織は、後の日本郵船や三菱商事などに発展していきました。幕末の動乱期に活躍した亀山社中の伝統は、現在の日本経済界を支える企業に引き継がれています。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の文学碑

復元工事が施された亀山社中跡

昭和39年に、当時産経新聞に「竜馬が行く」を連載していた作家の司馬遼太郎氏が取り壊しが噂される亀山社中があったとされる建物を訪れた際に、「この書き物を書いている私としては少し惜しいような気がした」と見聞に残しました。このことをきっかけに亀山社中跡を保存する機運が高まり、取り壊しの危機を回避することができました。平成元年には「亀山社中ば活かす会」によって内部が公開され、多くの人々が訪れる施設となっています。平成18年に閉鎖して復元工事が施された後、平成21年に「長崎市亀山社中記念館」としてリニューアルオープンしました。記念館内部は、10畳・8畳・3畳の部屋と土間に分かれており、隠し部屋とされる中2階は、はしごを登って中を見学することができます。また坂本龍馬のブーツのレプリカやピストル、書簡の写し、亀山社中の人々の写真など、亀山社中や海援隊に関する資料が展示されています。

 

龍馬ゆかりの場所が多い亀山社中跡の周辺

亀山社中跡の周辺には、縦横無尽に張り巡らせた長崎独特の坂道があり、港町長崎の風景を楽しむ場所が至るところにあります。また「長崎市亀山社中記念館」の近くには、記念撮影スポットして人気のブロンズ製の「龍馬のぶーつ」、若宮稲荷神社、風頭公園の「坂本龍馬像」などがあります。寺町通りの禅林寺と深崇寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園に至る石段の坂道は「龍馬通り」と呼ばれており、長崎市亀山社中記念館への行き帰りには、通ってみたいところです。皆さんも亀山社中跡を訪れてみて、幕末の動乱期に活躍した亀山社中に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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