外国人居留地の時代に出来た異国情緒あふれる石畳の坂、東山手の地で外国人によって開花した西洋文化の象徴として映るオランダ坂

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オランダ坂

外国人居留地の時代に造られたオランダ坂

長崎県長崎市にあるオランダ坂は、幕末から明治時代にかけて外国人居留地があった山手地区に残っている石畳の坂道です。長崎は三方を山に囲まれ、平地の少ない地形をしています。長崎の市街地は、手狭な平地から斜面地へと発展していったため、急勾配の構造となっています。そのため長崎は坂が多く、歴史由来の呼び名のある坂もいくつもあります。そんな坂の街長崎にあるオランダ坂は、外国人居留地の時代に造られた歴史由来のある坂です。オランダ坂のある東山手地区には、東山手洋風住宅群があり、近くには長崎孔子廟などの歴史を物語る建物も多く、長崎の異国情緒を感じとることができます。今回は、外国人居留地として発展した東山手の歴史に触れながら、オランダ坂の魅力に迫っていきます。

東山手の洋館と桜の花

外国人が求めた眺めの良い土地だった東山手

幕末の1858年に江戸幕府が、米・蘭・露・英・仏の5ヵ国と修好通商条約を結びました。これを受け、長崎や神奈川、函館が開港され、条約締約国との貿易を始めました。長崎には出島や中国人の居住地である館内がありましたが、これらの土地に加え、大浦天主堂のある大浦地区や中華街のある新地を外国人居留地としました。さらに大浦地区の海岸を埋め立てたり、丘陵地の東山手を宅地として造成することにより、約36万㎡の土地を確保し、たくさんの外国人が居住するようになります。こうして外国人による特別な町並みが形成され、出島で貿易していた頃とは段違いな量の諸外国の文化が長崎に流入しました。1859年に駐日英国公使として長崎に赴任したオールコックは、海を一望できる東山手地区を散策したところ「素敵な場所であると感じた」と述べた記録が残っています。外国人が眺めのよい土地を求めていたこともあって、斜面の畑地が広がっていた東山手は、外国人の住宅地居住地に変貌していきました。

東山手洋風住宅群に隣接する急こう配のオランダ坂

領事館や教会が建てられた東山手

長崎の外国人居留地は、中国租界在住の欧米人の保養地として賑わうようになり、様式のホテルやボウリング、ゴルフ、ヨットなどのスポーツ、飲み物のサイダーに至るまで、欧米の文化が次々ともたらされました。洋風住宅地の立ち並ぶ東山手には、英国領事館のほかに仏国領事館や米国領事館が建設され、「領事館の丘」ともよばれていました。中でも英国領事館は、長崎における諸外国の調整を行う代表的な役割を担う領事館でした。その英国領事館の近くに、日本初のプロテスタント教会である英国聖公会会堂が、1862年に建設されました。カトリックのイエズス会が室町時代末期に日本で布教活動をしたこともあって、長崎には旧教のカトリックの信仰はありましたが、新教のプロテスタントは、居留地時代になって初めて長崎にもたらしました。

雨に濡れたオランダ坂

教会へ通じる道として整備されたオランダ坂

居留地を造成する際、外国人たちは「教会へ通じる1本は完全に舗装し、山手のあらゆる坂道は同様に割り石を敷くこと」を要求しました。英国聖公会会堂が完成すれば、日曜日に居留地在住の外国人信者が礼拝するようになります。居留地の外国人たちはこの英国聖公会会堂に至る坂道を、馬車や人力車でも通ることのできる石畳の坂道にするように求めました。そしてこの石畳で整備された坂道が、オランダ坂と呼ばれるようになりました。長崎の人々は江戸時代の長い間、オランダ人が出島に住んでいたこともあって、西洋人を「オランダさん」と呼んでいました。そのためオランダさん(西洋人)が通る坂という意味で、オランダ坂の生江が定着したのではないかと思われます。

 

 

特別な火薬を使って開削した切り通し

長崎の異国情緒漂うオランダ坂

長崎電気軌道の市民病院電停の近くには、居留地時代に諸外国との貿易や外交などの事務を行っていた運上所がありました。この運上所から東山手にある英国領事館、そして英国聖公会会堂を結ぶルートはオランダ坂の中でもメインルートとなっており、現在でも石畳や周辺の洋館などが残っている雰囲気のある坂道でもあります。運上所から東山手へは、うっそうとした木々に覆われた小高い山となっていますが、ここを明治時代初期にニールズ・ルンドバーグというスウェーデン人の貿易商が特別な火薬で開削しました。この開削部分は切り通しとなっており、オランダ坂の入口付近の代表的な風景となっています。この切り通しの先には、東山手十二番館や活水女子大学などがあり、数々のテレビや映画などに登場する有名なロケ地となっている場所となります。長崎は雨の街として有名ですが、雨に濡れたオランダ坂は、「雨のオランダ坂」など、流行歌にも取り入れられるほど異国情緒漂う景観となります。

外国人が育んだ長崎の歴史遺産

居留地は、外国人の居住・営業や、日本の法律が及ばない治外法権まで認めていたこともあって、境界がしっかりと設けられました。中国人居留地の一ヵ所だけが長崎市街地と隣接している以外は、海や川や溝、道路、石垣、自然の崖地などで区切られ、日本人と西洋人を隔絶していました。オランダ坂は起点付近の石橋に番所が設置されており、居留地との境界を示す役割も担っていました。当時の長崎の人々には、境界線の先に伸びるオランダ坂は異国文化の象徴的なものとして写っていたのかもしれません。明治32年に居留地制度が撤廃され、外国人は居留地の外でも生活できるようになりましたが、この旧居留地に住み慣れた外国人は引き続き生活を続けたそうです。そんな外国人たちが育んできた東山手の文化は、現在でも洋館や石垣、そして石畳のオランダ坂などの歴史的遺産として現在も残っています。皆さんもオランダ坂を訪れてみてこの歴史的遺産が生んだ異国情緒を味わってみてはいかがでしょうか。

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