歴史と文化が今も残る千栗八幡宮
佐賀県みやき町にある千栗八幡宮は、八幡大神の御神霊である応神天皇とその父仲哀天皇、母の神功皇后が祀られた八幡宮です。小高い丘に建つ千栗八幡宮は、古来より宇佐神宮の別宮としての聞こえもあり、多くの人々から崇敬されながらその歴史を刻んできました。3月には日本三大粥祀りの一つである「お粥だめし」、8月には「名越祭」、9月には秋の大祭である「放生会」・「行列浮立」が行われ、千栗八幡宮の伝統文化を今に伝えています。今回は歴史と伝統が今もなお残っている千栗八幡宮を掘り下げ、その魅力に迫っていきます。
八幡大神ご降臨の地に創建された千栗八幡宮
千栗八幡宮は、聖武天皇の治世であった724年に肥前国の郡司であった壬生春成が創建したと伝えられています。言い伝えによると、壬生春成が狩りをしていた時に、一羽の白鳩が弓先に止まりました。不思議に思いながら帰宅した春成は、その晩に白髪の老人が夢に現れたそうです。老人は「八幡大神のご降臨のめでたい瑞相だ」と言って千個の栗を授けました。翌日、白鳩が止まっていた場所に行くと、千株の栗の木が一夜のうちに生い茂っていたそうです。このことを聖武天皇に奏上したところ、天皇も大変お喜びになられ、壬生春成は、この地に宮を建てました。この宮が千栗八幡宮の始まりとなります。
時の為政者から崇敬された千栗八幡宮
935年に起こった天慶の乱の際には平将門と藤原純友らの追討祈願のために、千栗八幡宮は筑前の大分宮、肥後の藤崎宮などの九州の由緒ある八幡宮とともに五所別宮の一つとなり、朝廷の崇敬を受けました。また平安後期から始まった一宮制が全国に確立されていくようになると、千栗八幡宮は、肥前一宮と称されるようになります。こうして千栗八幡宮は、皇室そして当時台頭してきた武家勢力、庶民にいたる多くの人々から尊崇を受けるようになりました。南北朝時代になると千栗八幡宮の西に千栗城が築城され、戦国時代には戦乱に巻き込まれて社殿が焼失してしまいましたが、戦国大名の龍造寺政家がこれを再建し、江戸時代の為政者となった鍋島氏からは社領200石を寄進し、現在みやき町の重要文化財となっている石造りの肥前鳥居が奉納されました。
1200年以上の歴史がある千栗八幡宮の「お粥だめし」
江戸時代を通して佐賀鍋島藩の庇護を受けた千栗八幡宮は、固有の文化の継承・発展を担う重要な役割を果たしました。明治時代には県社に定められ、昭和15年には国弊小社に昇格していき、現在は別表神社に列せられています。権力者から保護されていた期間が長い千栗八幡宮は、昔から伝わるお祭りも揺るぎなく継承されています。毎年3月15日に開催されるお粥だめしは、1200年以上の歴史があり、日本三大粥祭りの一つとされています。2月26日に大きな鍋でお粥を炊き、銅製の鉢に盛り、箸を十文字に渡して東西南北を定め、肥前・肥後・筑前・筑後の4カ国に国分けをし、本殿に納めます。3月15日にそのお粥の表面のカビの生え具合を見て各地の天候や農作物の収穫具合、台風、洪水、干ばつ、地震、火災などを占います。お粥だめし当日は、占いの結果を確認しに来る参拝者で賑わいます。
千栗八幡宮の「名越祭」と「放生会・行列浮立」
8月1日には「輪くぐりさん」と呼ばれる「名越祭」が行われます。茅で作られた大きな輪は、正月から6月までの罪穢れを祓うといわれており、それをくぐることで、疫病や災難から逃れられるという言い伝えがあります。9月に行われる秋の大祭「放生会」・「行列浮立」は、五穀豊穣への祈りと国家の安寧、氏子・崇敬者の平安を祈る祭典です。毎年9月15日に近い日曜日には神様が御神輿に乗り、約2km離れた下宮まで御神幸をされます。その道中で氏子地区による行列浮立の奉納があります。伝統衣装に身を包み、犀の毛や鐘、笛や太鼓で囃しながら練り歩き、獅子舞もお供します。
「平成の三四郎」古賀稔彦氏が鍛練した千栗八幡宮の石段
千栗八幡宮の正参道には、社殿まで約146段続く石段があります。この石段は別名「栄光への石段」と呼ばれており、「平成の三四郎」と称された地元みやき町出身の柔道家である古賀稔彦氏が、千栗八幡宮の石段を使って少年時代に心身を鍛えました。当時小学生であった古賀稔彦氏は、大人が上がるのに2〜3分かかる急な石段を毎朝7往復していました。鍛練を重ねていった古賀氏は、日本を代表する柔道家として成長していき、平成4年のバルセロナオリンピックでは金メダルを獲得します。地元を離れてからも、帰省すると年始の参拝は欠かさなかった古賀稔彦氏。平成8年には、古賀氏の業績を称える「栄光への石段」の石碑が建てられました。
焼失の被害を受けながらも継承されていった千栗八幡宮の文化
八幡大神の御信託を受け、皇室からの崇敬を受けながら奈良時代からの歴史を紡いできた由緒ある千栗八幡宮。武家の世になると、千栗八幡宮も戦火に巻き込まれるようになります。筑紫平野の小高い丘の上に建つ千栗八幡宮は、標高30m足らずしかありませんが、筑後川流域の低地の様子を幅広く見ることができます。この小高い丘に多くの武将たちが戦略的価値を見出し、その領有を巡って数々の戦がありました。特に被害を受けたのが1534年に大内氏家臣の陶氏に攻められた時でした。綸旨・院宣などの古文書を始め、社宝・神具などを失いました。この後、龍造寺氏、鍋島氏によって千栗八幡宮は最興されますが、もしこれらの文書や宝物が残っていれば、かなり貴重な文化財を保有することができていたでしょう。大変口惜しい気持ちを抱きながら見る社殿眼下の景色は、県境先に広がる久留米市街地が展開しており、ダイナミックに動く時の流れを感じすにはいられませんでした。皆さんも千栗八幡宮を訪れてみて歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
コメント