太宰府天満宮と菅原一族を支えた水田荘に建てられた守護神社、筑後の鎮守を担いながら菅原道真の魂を今に伝える水田天満宮

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天満宮

歴史を積み重ねて発展していった水田天満宮

福岡県筑後市にある水田天満宮は、九州二大天満宮の一つで、学問の神様である菅原道真を祀る歴史ある神社です。境内には水田天満宮の末社であり、「良縁幸福の神様」として大勢の良縁参拝客が訪れる恋木神社があります。また筑紫平野の一角にある水田天満宮は、周辺に山がなく、境内に鎮守の森があります。田園や住宅地が広がる地域に、老木生い茂る水田天満宮の森は、参拝者に一服の清涼感を与えます。水田天満宮は、創建以来、筑後のこの地域の鎮守として、多くの人々の尊崇を受けながら発展してきました。今回は水田天満宮の積み重ねてきた歴史について触れていきます。

水田天満宮の楼門

菅原一族の荘園の守護、水田天満宮

水田天満宮は、鎌倉時代の1226年に後堀河天皇の勅命により、菅原道真の子孫菅原為永によって創建されました。水田天満宮が創建された土地は、太宰府天満宮の荘園である水田荘があり、菅原氏一族の鳥居氏が当時支配していました。太宰府天満宮の荘園であり、菅原道真の子々孫々が太宰府からの退隠の地とされていた水田荘。太宰府天満宮が、全国にある天満宮の総本宮としてオフィシャルな性質を持つ神社だとすれば、水田天満宮は、菅原一族の支配する水田荘を守護するプライベートな性質を持つ神社だと言えるのではないでしょうか。

水田天満宮の西門

豊臣政権下の大名から寄進を受ける水田天満宮

水田天満宮は、菅原一族の支配する太宰府天満宮の荘園である水田荘の鎮守としてプライベートな性質が強い神社でしたが、豊臣政権の時代になると、武家の有力大名から領地の寄進を受けるようになります。久留米城主小早川秀包から一千石、江戸時代初期の柳川城主田中吉政から一千石、江戸幕府上使松倉重政より一千石、江戸時代の久留米藩主有馬豊氏より二百五十石、柳川藩主立花宗茂より五十石の寄進があり、三千三百石の領地を持つ神社になりました。そして江戸時代は、筑後国を治める久留米藩主、柳川藩主に尊崇され、太宰府天満宮に次ぐ九州二大天満宮として発展していきました。

水田天満宮本殿

学問で名高い菅原一族の神社

豊臣政権になってから、水田天満宮が発展し、勢いを増していったのは、なぜでしょうか。考えられるのは、古くから大和朝廷に仕える貴族で、学問の神として多くの人々から慕われている菅原道真を祖先に持つ菅原一族の血筋の良さです。豊臣政権下の有力大名は、戦国時代の世を実力でのしあがった出自の低い大名が大半でした。そのため、出自が高くて学問で名高い家系の菅原一族の神社を庇護することで、その威光にあやかろうとしたのではないでしょうか。

太鼓橋と石造の大鳥居

発展する水田天満宮の地域経済

水田天満宮の発展した理由として、その他に考えられるのは、地域経済が発展したことです。水田天満宮の周辺は、矢部川と筑後川流域にあり、農業用水と水運を整備することで、経済が豊かになる可能性のある土地でした。豊臣政権だった頃、この地域の支配者であった立花氏が、花宗川という自然の河川を利用した半人工の利水目的の川を開発します。河川開発事業は、関ケ原の戦い後に新しい支配者となった田中氏に引き継がれ、花宗川を完成させます。花宗川の完成で農業生産が拡大し、水運が活発になりました。地域経済が発展し、その地域の鎮守であった水田天満宮もより多くの信仰を集めたと言ってもいいのではないでしょうか。水田天満宮の参道にある太鼓橋の近くに、完成当時の為政者であった田中忠政が、花宗川の完成を祝い、寄進したと言われる石造の大鳥居があります。

心字池と神楽舞台

コンパクトな参拝ができる水田天満宮

真っ直ぐな参道を通り、立派な楼門をくぐると、水田天満宮の境内になり、目の前に本殿があります。水田天満宮の本殿は江戸時代の1672年に再建されたもので、太宰府天満宮の建築様式を踏襲した朱塗りの柿葺き流造りとなっています。この他にも神楽舞台のある心字池や、楠の大木や樹齢400~600年といわれるイチイガシの木が茂る鎮守の森、恋木神社に代表される水田天満宮の末社がコンパクトに配置されており、参拝者が回遊しやすい境内となっています。

恋木神社

恋命を祀る恋木神社

恋木神社は、水田天満宮の創建時より境内に鎮座している神社です。恋木の木は東を意味し、菅原道真が太宰府に左遷された時、東の方角にある都の天皇や妻子を思う心は、いたたまれないものがあったのではないでしょうか。恋木神社は、そんな菅原道真のせつない心を「恋命」として祀った神社です。現在では、恋愛の神様として、良縁や復縁成就にご利益があるとされ、恋する女性やカップルの聖地としてもなっています。

水田天満宮神幸祭の稚児風流

毎年10月下旬の水田天満宮神幸祭は約600年以上の歴史を持ち、福岡県の無形民俗文化財にも指定された五穀豊穣を祈る氏子の祭です。稚児風流は、別名「ドンキャンキャン」とも呼ばれる稚児風流は、神輿の神幸とともに5〜12歳のお稚児さんが、町内を練り歩きます。お稚児さんはシャグマという被り物を頭に被り、金襴の陣羽織を着て、笛や太鼓のお囃子にあわせて踊ります。お稚児さんが一生懸命に踊る舞いは、神幸祭の見どころの一つです。

平安時代の雅を今に伝える水田天満宮

水田天満宮は、鎌倉時代初期の1226年に創建されていますが、なぜこの時代に建てられたのでしょうか。はっきりとした理由を掴めるものはありませんが、推察として武家勢力の伸長が挙げられるのではないでしょうか。この時期は、承久の乱で勝利した鎌倉幕府が、西日本に影響力を拡大した時代と重なります。菅原一族は、自らの支配する太宰府天満宮の荘園の守護として水田天満宮を創建したのかもしれません。水田天満宮の境内は、平安文化から受け継がれた優雅さが残っており、和の心を確認する場所となっています。武士の世の中という菅原一族にとって逆境の立場にありながらも、太宰府天満宮とともにその威信を発信してきたのが、水田天満宮なのではないでしょうか。皆さんも水田天満宮を訪れてみて、時を越えて伝えられた雅に触れてみてはいかがでしょうか。

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