幕府の中枢で、徳川の世を支えた井伊氏の本拠地彦根城
滋賀県彦根市にある彦根城は、関ケ原の戦いの後に、東近江を領有した井伊氏によって築かれた平山城です。井伊氏は江戸時代を通して、常に徳川幕府の中枢を占め、幕府の政治に関与していきました。彦根城は、江戸の徳川の世を支える井伊氏の本拠地としてその存在を天下に轟かせました。彦根城の築城にあたっては、7ヵ国12〜15もの大名が携わっており、徳川家重臣の威光による天下普請で出来た城です。今回は彦根城について触れ、築城から明治維新まで一貫して彦根城主だった井伊家の栄光の歴史にも迫っていきます。
近江18万石を与えられた井伊氏
戦国時代に遠江の国人であった井伊直政は、桶狭間の戦いの後徳川家康に仕えます。数々の功績をあげ、徳川氏の天下統一に貢献した井伊直正は、徳川四天王と称せられるほどになりました。天下分け目の関ケ原の戦いでは、軍功と外交折衝での功績が評価され、石田三成の領地であった近江国の18万石を主君徳川家康より与えられます。
軍事的に重要な東近江の地
井伊直政の与えられた東近江の領地は、中山道と北陸道の結節点であり、琵琶湖の水運も盛んに行われる交通の要所でした。軍事的にも重要な土地で、古代には672年の壬申の乱、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った姉川の合戦、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳合戦、そして天下分け目の関ケ原の戦いと、地域や天下の覇権を巡った戦いが相継いで行われています。
井伊氏、東近江で豊臣恩顧の大名の監視にあたる
徳川家の直臣である井伊氏が交通の要所で軍事的にも重要な東近江の地に赴いた主な目的は、関ケ原の戦いで増長した豊臣恩顧の大名を監視することでした。石田三成との天下を巡る戦いでは、徳川の軍が主力となって石田方の戦力を粉砕する構想を徳川家康は目論んでいました。しかし、実際の天下分け目の関ケ原では、徳川の精鋭部隊である徳川秀忠の軍は、信州での真田氏との戦いに手こずり、関ケ原の戦いに間に合いませんでした。
徳川家直臣の井伊氏が、西国大名の脅威に備える
関ケ原の戦いでは、徳川方に味方した豊臣恩顧の大名が奮戦し、最後は小早川英秋の裏切りによって雌雄を決した戦いであり、徳川氏が辛勝した感が否めない戦いでした。戦いの後の恩賞でも、豊臣恩顧の大名に石田方の大名から没収した領地の多くを分け与え、徳川氏にとって脅威的な存在となりました。豊臣恩顧の大名の多くは西国に領地があったため、徳川氏は、東近江に井伊氏を配置して、西国の大名を監視を強化する狙いがありました。
井伊氏、彦根城の築城に着手する
井伊直政は、近江18万石の領主となると、最初は石田三成の居城であった佐和山城に入りますが、三成の城と城下町を継承することを嫌い、琵琶湖に近い磯山に新しい居城にする計画を立てました。しかし直政は関ケ原で受けた傷がもとで死去し、計画は頓挫します。そして直政から家督を継いだ井伊直継の代になると、琵琶湖に面した彦根山に彦根城を築城します。
廃城になった城の建築物をうまく利用し、随所に巧みな技法が施された彦根城
標高136mの独立丘陵に建設された連郭式平山城で、天守は大津城、佐和口多門櫓は佐和山城、天秤櫓は長浜城と、廃城になった近江の城から移築したものが多くあるのも特徴的です。天守閣は、通し柱を用いずに各階ごとに積み上げられた3層3階地下1階の複合式望楼型で、大津城の天守を4重5階だったものを3重に縮小して移築したといわれています。また、天守をささえる石垣は、牛蒡積(ごぼうつみ)と呼ばれていて、自然石を使って重心が内下に向くようにつくられています。一見粗雑そうに見える石垣ですが、強固な造りの石垣となっています。彦根城は、本丸に続く橋を簡単に落とせるような構造にするなど、随所に防御のために技巧を凝らした部分が見受けられます。城の堅固さと威容においては、大変優れた城になっています。
度重なる工事で、風格を増す彦根城
井伊直政の死後に家督を継いだ息子の直継は病弱であったため、代わりに大坂の陣で活躍した弟の直孝が彦根藩主を継承します。2代将軍秀忠、3代将軍家光の信任も厚く、幕府の要職を歴任する幕閣筆頭の地位を井伊家は獲得します。井伊氏の居城であった彦根城は、度々の工事を経て1622年にすべての工事が完了しました。また、1633年に譜代大名の中では最高の35万石になった井伊氏は、直澄、直該、直幸、直亮、直弼と5代6度の大老職を出しました。1678年に4代藩主井伊直興が、現在の玄宮園の原型となる大名庭園を整備し、幕閣で権勢を誇った井伊氏の居城としての風格を高めていきました。
幕末の大老・井伊直弼の彦根城
幕末には内憂外患の幕府政治を大老として担った井伊直弼が彦根から登場します。13代彦根藩主井伊直中の側室の子として生まれた井伊直弼は、17歳から32歳まで自らが「埋木舎」と呼んだ彦根城三の丸にある北屋敷に住み、文武両道の修練に励んだといわれています。14代藩主井伊直亮が死去すると15代藩主の座に就き、藩の実権を掌握します。1858年には幕府の大老に就任し、日本史にその名を残すような大業を成しました。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことをきっかけに、井伊家は幕府から冷遇され、今までの地位が落ちてしまいます。しかし冷遇されたことにより、井伊氏内部では幕府を見限る考えが主流派になっていきました。そして鳥羽伏見の戦いでは徳川と戦い、新政府に味方します。その結果、井伊氏は賊軍の汚名を着せられることはなく、彦根城も落城という悲運を辿ることも免れました。
明治以降に彦根城が直面した存続の危機
江戸時代は幕閣の中枢、戊辰戦争では新政府側につき、井伊氏の居城として、その存続を保ってきた彦根城ですが、明治時代以降は存続の危機がありました。明治維新で廃藩置県を行った明治政府は、廃城令を出して日本全国にある城を取り壊そうとしていました。しかし、明治天皇が北陸巡幸からの帰路で彦根を通過していた時に、彦根城を保存するようにとの大命があったといわれており、かろうじて残りました。大命が下った理由は諸説ありますが、幕府の要職をつとめて井伊氏が、鳥羽・伏見の戦いで新政府側に味方したことが大きいのではないかと思います。また、太平洋戦争で、米軍は彦根空襲を計画していましたが、終戦により中止となりました。もし終戦が遅れていたら、彦根城は米軍の空襲により、焼け落ちていたかもしれません。
江戸時代の威容を、現在に伝える彦根城
彦根城は、姫路城、犬山城、松本城、松江城とおなじく、天守が国宝に指定された城です。3階建ての天守は、65〜67度と非常に急な階段となっており、最上階からは彦根市街と琵琶湖を一望できます。天守が長方形をしている彦根城は、市街地から見上げるとどっしりとした長辺が見えていて、天下泰平の江戸の世を、幕閣として支えた彦根藩の威信を現在に伝えているようです。歴史の変遷を経て今に残る彦根城。みなさんも彦根城を訪れて、現在に残るその威容を感じとってみてはいかがでしょうか。
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