真田氏が築いた天然の要害を生かす堅固な城、真田氏の武勲と江戸時代の上田文化を発信する上田城

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上田城

 

天然の要害を持つ堅固さと経済を支える城下町を兼ね備えた上田城

長野県上田市にある上田城は、1583年に真田昌幸によって築かれた平城です。堀と土塁に囲まれ、出入口に石垣を使った簡素な城ですが、周囲の川や河岸段丘などの天然の要害を存分に生かした堅固さを誇る城でもあります。上田城の真田氏が二度にわたって徳川の大軍を退けた戦いは有名です。中でも二回目の戦いは関ケ原の戦い後の天下の勢力図に多大な影響を与えた重要な戦いでした。江戸時代になると、城下町を形成していた上田城は上田藩の本拠となり、上田・小県地方の政治・経済の中心的役割を担いました。今回は堅固な天然の要害を持ち、江戸時代には地域の流通経済を支える城下町を持つ城として栄えた上田城に迫っていきます。

尼が淵から上田城を望む

真田氏の一大プロジェクトだった上田城築城

信濃国小県郡と上野国吾妻郡を領有する国人領主であった真田昌幸は、当時主君としていた徳川家康の援助を受けて上田城の築城にとりかかります。真田氏は砥石城などの難攻不落の城を持っていましたが、山城であったために経済活動を行うとなると不便な土地でした。上田盆地のほぼ中央に位置し、交通の要所に拠点となる城を築くことで、領国経営の効率化と経済発展を目指しました。しかも上田城の地は平地でありながら、千曲川によって形成された段丘や河川という天然の要害に恵まれた土地でもあります。このような好条件を智謀の将といわれた真田昌幸が見逃すはずがありませんでした。真田昌幸の生きた安土桃山時代は、日本全体の物流が拡大し、流通経済が発展した時代でもありました。上田城の築城は、真田氏の命運をかけた一大プロジェクトでした。

 

 

水の確保に万全を期した上田城

上田城は、南は河岸段丘で出来た断崖、北と西は矢出沢川の流れを変えるなどの工事を施して外堀とし、唯一の攻め口である東側にも、蛙沢川や湿地帯などが防御の役割を果たしました。このように守りやすい地形に位置する上田城ですが、周囲より高い断崖の上にあるため、水の確保には苦労しました。周囲を流れる神川や矢出沢川の水を土木工事の末に城内に引き込んでいます。また、未だにその深さを計測できない程の深い井戸も掘っており、水の確保に万全を期した真田氏の姿勢が見てとれます。

上田城の本丸南櫓と東虎口櫓門

第一次上田合戦

当時、豊臣秀吉と対立していた徳川家康は、背後の守りを固めるために関東の北条氏直に接近します。徳川家康は当時の配下であった真田氏に所領の沼田領を北条氏に割譲するように命じますが、真田昌幸はこれを拒否し、徳川との戦になります。これを1585年に起こった第一次上田合戦と呼びます。徳川軍7千に対し真田軍2千と数のうえでは真田軍の劣勢でしたが、真田昌幸の子信之の別動隊が徳川軍の背後から急襲を行いました。その結果徳川軍は新川まで追いやられ、溺死する者も多数出ました。こうして徳川軍は撤退を余儀なくされ、真田軍の大勝となりました。

上田城内にある真田神社

徳川の精鋭部隊が上田城攻略にとりかかる

1600年の第ニ次上田合戦では、石田三成率いる西軍についた真田昌幸・信繁親子と、徳川軍が激突します。江戸にいた徳川家康は東軍の総大将として、石田三成との戦うために西へ進軍するのですが、徳川軍を二つにわけ家康は東海道、息子秀忠は中山道を進むようにしました。そして秀忠の軍には徳川の精鋭部隊3万8千をつけ、来るべき決戦で三成方の軍を粉砕するシナリオを描いていました。中山道を進んだ徳川秀忠は、目の上のたんこぶである上田城の真田氏の攻略にとりかかります。

真田神社境内にある真田井戸

日本の歴史に大きな影響をあたえた第ニ次上田合戦

徳川軍の精鋭部隊3万8千に対して上田城の真田軍は2千と圧倒的に劣勢に立たされた真田氏でしたが、上田の地形を知り尽くしたゲリラ戦法で、徳川軍を手こずらせました。真田氏を攻めあぐねた徳川氏は、時間を浪費してしまい、天下分け目の関ケ原に参陣できないという失態を招きました。関ケ原の戦いでの勝利は、徳川に味方した武将の奮戦によるところが大きく、戦後の恩賞でも徳川氏より諸大名の方が多く領地加増されました。徳川軍が上田城の真田軍に手こずらなかったら、徳川の精鋭部隊は関ケ原の戦いに間に合い、徳川軍によって三成方の軍を蹴散らすことが出来たでしょうから、もっと強大な徳川政権が樹立できたのではないでしょうか。そういった意味では第ニ次上田合戦は、その後の日本史に大きな影響を与えた戦いと言って良いのではないでしょうか。

上田城内から市街地を望む

江戸時代に城下町として発展する上田

徳川の大軍を退けた真田昌幸でしたが、関ケ原の戦いで徳川方が勝利したため、真田昌幸・信繁親子は高野山麓に蟄居、上田城は廃城という処分が下されました。1622年には真田氏に変わって仙石氏が上田の領主となります。仙石氏は廃城となった上田城を復興し、藩政の中心とします。現在見ることのできる上田城の大半は、仙石氏の時代に築かれたものです。1706年には仙石氏にかわって譜代大名の松平氏の所領となりました。江戸時代中期と後期の上田城は、老中などの幕府の要職を歴任する藤井松平氏のお膝元として発展しました。江戸時代の上田の統治を担った仙石・松平両氏は、領内の農業振興や産業育成に力を注ぎ、上田の城下町は発展しました。また上田独自の文化が育まれ、多くの人材を輩出しました。

真田氏の息吹を感じる上田城と城下町

上田城内に、歴代の上田城主であった真田・仙石・松平氏が祀られている真田神社があります。数々の武勲を挙げた真田氏にあやかりたいと現在でも多くの人々が参拝に訪れています。明治の廃藩置県後も、陸軍の鎮台が置かれたり、交通の要所となったりして上田の町は発展していきました。現在、地方の拠点都市として発展した上田の町の礎を築いたのは、数々の戦功で天下にそ名を轟かせた真田氏です。そして上田城や上田の城下町を歩いていると、その息吹が残っているように感じます。皆さんも上田城を訪れてみて、真田氏の息吹が残る上田の文化に触れて見てはいかがでしょうか。

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