安徳天皇と滅亡した平氏を弔うために千代が造った社に由緒を持つ神社、筑後川流域の人々や久留米藩主の有馬氏の崇敬く全国の総本宮となった久留米の水天宮

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久留米市

力強く歴史を歩んできた水天宮

福岡県久留米市にある水天宮は、安徳天皇の母である高倉平中宮に仕えていた女官の按察使局が、千歳川(現在の筑後川)の辺りの鷺野ケ原に水天宮を祀ったことが起源となる神社です。主祭神は、「天御中主神」のほかに、「安徳天皇」、「高倉平中宮」、安徳天皇の祖母である「二位の尼」の4柱となっており、檀ノ浦で滅亡した平氏を弔っている神社でもあります。数々の戦乱で苦難を受けながらも、平氏の末裔が代々の宮司を務めた水天宮は、地元の人々の信仰を集めながらその歴史を守り続けていきました。江戸時代には久留米藩主の有馬氏が崇敬し、手厚い保護を受けることによって全国に水天宮が広まります。幕末になると、水天宮の宮司であった真木和泉守が、勤王の志士として活躍しました。歴史の変遷を受けながらも力強く歩み、多くの人々の信仰を集めてきた水天宮を探っていきます。

昭和2年建立の鳥居、東郷平八郎書の「水天宮」の額が掲げれている

安徳天皇や平氏を弔う社に起源を持つ水天宮

源氏方の軍に追いつめられ、壇ノ浦の戦いで敗れた平氏は、滅亡の道をたどりました。幼い安徳天皇は二位の尼に抱き抱えられて入水し、その短い生涯を終えました。歴代の天皇の中でも安徳天皇は、悲劇的な最期を遂げられた方ではないでしょうか。平氏の女性たちが逃げ惑い、自ら命を絶つ中、安徳天皇の母である高倉平中宮に仕えていた按察使局は、ニ位の尼から「安徳天皇らを弔う」よう命を受けます。戦場から逃れ、現在の筑後川辺りの鷺野ケ原に着いた按察使局は、安徳天皇らを弔う社を建てました。按察使局はその後剃髪して尼となり、名前を千代と改めます。地元の民に請われ加持祈祷などを行ったところ霊験あらたかであったため、尊崇するものが増えていきました。千代は尼御前と称えられ、水天宮は江戸時代まで「尼御前神社」と呼ばれていました。

本殿へと至る参道

 

平右忠を養子にして大切に育てた千代

千代は平知盛の孫である平右忠を養子にして、大切に育てました。平知盛は平清盛の四男で、文武に優れた武将として知られていました。壇ノ浦の戦いで敗れ「もはやこれまで」と悟った時、平知盛は自らの屍が源氏の手に入るのを避けるため、体が浮かび上がらないよう碇を担いで入水したといわれています。このエピソードは後に「知盛」として歌舞伎で演じられるようになりました。千代は、武門の誉高い平知盛の孫である平右忠に自分の跡を継がせました。水天宮の宮司を務めてきた真木家はその子孫と伝えられ、その歴史を守り継いでいきました。千代の死後、地元の人々は、その墓を造り「千代松明神」として祀りました。明治43年には元の場所から水天宮の境内に遷され、本殿の東側に「千代松神社」として鎮座しています。

水天宮境内から見える筑後川

江戸時代に有馬氏から手厚い保護を受けた水天宮

鎌倉時代の初期に創建された水天宮の前進である尼御前神社は、戦場になることが多かった筑後川流域に鎮座していたということもあって、社殿を遷すことを幾度も行いました。やがて泰平の世の江戸時代になると、久留米を統治した有馬氏によって崇敬され、厚い保護を受けるようになります。1650年には、久留米2代藩主の有馬忠頼が、久留米城下の広大な土地と社殿を寄進し、名を「水天宮」に改めました。この寄進された土地の地名は瀬下町といい、江戸時代は現在の筑後川昇開橋のある若津とともに、筑後川の物資集散地として大いに栄えました。氾濫を繰り返す筑後川の安全を祈願し、地元の人々から崇敬を受けてきた「尼御前神社」を瀬下町に遷すことは有馬氏にとって、水神様に航行の安全を祈願するという意味もありました。

水天宮境内にある真木和泉守像

幕末期に活躍した水天宮の22代宮司、真木和泉守

水天宮の22代宮司である真木和泉守は、幕末の動乱期に勤王の志士として活躍しました。真木和泉守は、水戸学に傾倒し、強い勤王思想を抱くようになります。そして平氏の血筋を引く真木和泉守は、源氏政権である徳川幕府を打倒する考えを固めていきました。幕末の動乱期に積極的に行動した真木和泉守は、やがて勤王派の中心的人物となり、1862年の禁門の変では、長州藩の志士とともに決起します。しかし幕府に敗れてしまい撤退を拒んだ真木和泉守は、同志とともに自刃しました。水天宮の境内には志半ばにしてその生涯を閉じた真木和泉守を祀る真木神社があります。

水天宮境内に鎮座する真木神社

全国へ広がった水天宮

江戸時代後期の1818年には、9代藩主の有馬頼徳が久留米藩の江戸藩邸に水天宮の御分霊を勧請し、明治4年に現在の東京都中央区日本橋に御遷座されたのが、東京水天宮です。そして水天宮への信仰は全国に広まっていき、久留米の水天宮は全国の水天宮の本宮となりました。水天宮は、仏教における護法善神で、水の徳があるとされた「水天」を祀っていましたが、明治時代に神仏分離令が出されると、主祭神を「水天」から「天御中主神」に変更しました。その後の水天宮は、日本海軍の崇敬を受けるなど、明治の近代化の歩みとともに発展していきました。


約800年にわたる歴史を感じる水天宮

筑後川の河畔にある境内を歩くと、真木神社や、日露戦争の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎が揮毫した鳥居の額など、歴史を感じるモニュメントがたくさんあります。懐古的な気分になりながら参道を歩くと、どっしりと構える本殿があります。江戸時代に有馬氏によって改築された社殿は、水天宮を庇護した久留米藩の威風を感じるものがあります。壇ノ浦の戦いで、滅亡という憂き目にあった平氏の女官によって造られた水天宮。落ちのびたゼロの状態から始まったこの社は、平氏の末裔が代々に渡って守り続け、筑後川流域の人々から崇敬を受けながら約800年の歴史を刻みました。現在では日本全国に水天宮の御分霊社が建てられ、全国総本宮としての由緒を持つ大きな神社となりました。皆さんも水天宮を訪れてみてはいかがでしょうか。

 

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