多くの人々の力を結集して建設された通潤橋
熊本県山都町にある通潤橋は、日本最大級の規模を誇る石造アーチの水路橋です。江戸時代末期の1852年12月から1854年8月までの約1年8ヶ月の長い期間にわたって建設された通潤橋は、白糸地区や矢部地域の人々の人力と、肥後の大工や石工たちの技術の粋を集めてできた橋です。矢部地域の発展を考えていた矢部郷の惣庄屋(当時の町長にあたる)であった布田保之助は、台地となっている白糸地区へ、十分な農業用水の供給をはかるために通潤橋の建設を考え、実行しました。景観の美しさから観光地にもなっている通潤橋は、現在も白井台地の水田を潤しています。今回は江戸時代末期の白糸地区への治水事業に触れながら、当時の技術や多くの人々の力を結集して建設された通潤橋の魅力に迫っていきます。
農業用水の供給をはかる一大プロジェクトだった通潤橋
阿蘇外輪山の南西側裾野に位置する矢部郷は、連なる丘陵と深い渓谷で構成された地形をしており、緑川や御船川の源流となる水資源に恵まれた土地でもあります。江戸時代末期に矢部郷の惣庄屋となった布田保之助は、矢部地域にたくさんの道路や用水路、石橋などを建設し、地域の発展をはかりました。そんな布田保之助が中心となり、多くの人々の力を結集して完成した橋が通潤橋でした。白糸地区は四方を渓谷に囲まれた台地の上に集落や田畑を形成しており、慢性的な水不足に苦しんでいました。十分な農業用水が得られず、農業生産に制約のあった白糸地区は、矢部郷の中でも一番貧しい村でした。通潤橋の建設は渓谷に橋を架けることで、白糸地区へ十分な農業用水の供給をはかる一大プロジェクトでした。
巨大な石造アーチ橋の建設を可能にした高い技術を持つ石工集団
当時の中国の最新技術であった石造アーチ橋は、江戸時代初期に明から渡来した僧が、1634年に長崎に眼鏡橋を架けて以来、九州を中心に西日本で散発的に作られました。江戸時代末期に現在の熊本県南部あたりから高い技術を持った石工が現れてからは、大規模な石造アーチ橋が増えはじめました。布田保之助は、1847年に完成した巨大な石造アーチ橋である霊台橋を見て、「石造アーチ橋であれば、(水路による水の供給が)可能かもしれない」と確信したといわれています。しかしながら、従来にない技術を要する橋の建設は困難を極めました。
通潤橋の建設に向け、奔走した布田保之助
壮大な石造アーチ橋を計画していた布田保之助は、建設にかかる莫大な費用の財政補助を、熊本藩から獲得するために奔走します。詳細な計画を記載した「奉願書」を藩に提出し、藩から問われた懸案事項に対しては「御受申上候覚」をもって明確な返答を返しました。こうした地道な努力もあって、当時の郡代である上妻半右衛門をはじめ多くの人々が協力を申し出るようになります。そして1853年には、熊本藩から橋の建設の許可と費用の補助を得るに至りました。建設にあたっては、高度な技術を持つ石工集団・種山石工の協力により頑丈な石垣を作り上げました。
高い水圧にも耐えられる水路を備えた完成度の高い建築物の通潤橋
通潤橋は、長さ75.6m、幅6.3m、高さ20.2m、アーチ直径28.2mと単アーチ式の眼鏡橋では日本一の規模を誇りますが、凄いのはそれだけではありません。通潤橋の高さは、供給先の白糸地区よりも低い位置にありますが、逆サイフォンの原理を活用した水圧を利用してこの問題を克服しています。通水路は強大な水圧に耐えられるよう良質の石材を使い、またその結合部からの漏水を防ぐために石の面に溝を切り、そこに土・砂・塩・松葉汁などを混ぜた特殊な漆喰を入れて固めています。通潤橋を通る3本の通水管は、1つずつ水量の調整ができ、橋の中央にある放水口から管内にたまった土砂などを吐き出せるような設計をしています。当時の土木技術の粋を集めて建設された通潤橋は、現代土木工学の議論に適合しないものはないと言われるほど、完成度の高い建築物です。
名前の由来を聞けば、深い含蓄を感じる通潤橋
通潤橋と用水路の完成により、白糸地区には約100haの水田が造られ、水不足に苦しんでいた人々の生活が大幅に改善しました。160年以上経過した現在も、農業用水の供給能力は健在で、通潤橋よりも高い白糸台地の水田を潤しています。通潤橋の名前の由来は、熊本藩の藩校「時習館」の教導師であった真野源之助が、中国の古典である「易損卦程伝」にある「澤在山下其気上通潤及草木百物」という文章から「通」と「潤」を橋の名前として採択したことによります。この「山の下にある沢の気がその上にある草木などの植物全般を潤す」という含蓄のある文章は、多くの人々の労力を費やして白糸台地を潤した通潤橋を物語っているようにも感じますし、この画期的な建築物にふさわしい命名だったと感じます。
明治政府からも注目された通潤橋
やがて明治時代となると、通潤橋はその特異性のある構造により明治政府からも注目され、多くの役人が視察に訪れるようになります。大蔵省少丞であった林友幸はアーチ橋の高い建設技術を吸収するため、通潤橋に関わった関係者として保之助の息子である布田弥門、石工として橋本勘五郎を招聘しました。熊本の石工は、日本橋をはじめとする東京のアーチ橋建設には直接関わっていませんが、通潤橋で培ったノウハウが、東京での近代的なアーチ橋にも生かされているといえます。明治6年には林友幸の上奏によって明治政府から功績のあった布田保之助へ「銀盃壹組、絹壹疋」が下賜されます。
先人が造った大いなる遺産「通潤橋」
布田保之助は、政府からの表彰の直後に亡くなりますが、地元有志の手によって布田神社や銅像が造られ、現在でも「布田保之助翁」として親しまれています。平成28年の熊本地震による損傷に加え、平成30年の豪雨で石垣が崩落するなどの被害がありましたが、令和2年に保存修理工事が完了し、年間約100回行われる放水が再開しました。全国で唯一の「放水する石橋」としても知られ、多くの人々が観光に訪れる通潤橋。皆さんも通潤橋を訪れてみて、先人が造った大いなる遺産を確かめてみてはいかがでしょうか。
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