長崎の中心として繁栄した中島川の両岸を結ぶ石橋アーチ橋、幾多の災害を乗り越え現在もその姿を残す眼鏡橋などが有名な中島川の石橋群

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アーチ橋

文化的価値の高い石造アーチ橋

長崎県長崎市の中島川に架かる石橋群は、江戸時代に造られた文化的価値の高い石造アーチ橋です。この中島川の石橋群の中でも最も有名な眼鏡橋は、東京都の「日本橋」、山口県の「錦帯橋」と並ぶ日本三名橋に数えられます。眼鏡橋が1634年に建造されて以来、中島川にはたくさんの石造アーチ橋が架けられ、1700年までに14もの石橋が誕生しました。江戸時代の石造アーチ橋が現在も美しい景観を保ちながら残ってのは、度重なる水害と戦ってきた中島川周辺地域と、外国との貿易で繁栄した長崎の町の歴史を抜きにしては考えられません。今回は、国指定重要指定文化財の眼鏡橋を中心とする中島川の石橋群に触れ、その歴史と魅力について迫っていきます。

雨の編笠橋

長崎の外国貿易で、都市化が進んだ中島川の両岸

中島川は流域面積17.9k㎡、流路距離5.8kmの小さな川ですが、周りを山に囲まれた平地の少ない長崎において、中島川の両岸には貴重な平坦地がありました。長崎が開港されると、限られた平地のある中島川の両岸の人口が増えていきました。そして江戸時代に出島が置かれると、長崎の外国貿易は本格的なものになり、中島川周辺の人々の往来が急増していきます。右岸側の武家屋敷から川を挟んで左岸側の山裾にある寺町まで川の流れと直交する路地ができました。この路地に向き合う形で、本大工町、船大工町、麹屋町、鍛冶屋町などの職人町や、今魚町、酒屋町などの商人町が形成され、都市化が進みます。

美しい景観の眼鏡橋

日本初の石造アーチである眼鏡橋

江戸時代の中島川は現在よりも水深が深く、水運としてたくさんの物資を運ぶことに、とても適した河川でした。しかし陸上交通に視点を写してみると、町の中心を流れ、水運の利を与えていた中島川が皮肉にも、町を分断する存在となっていました。そこでたくさんの橋を建設することが必要となりましたが、周囲の山からの水が流れ込む中島川は、頻繁に増水する川で、橋が流されることも度々ありました。そのような状況を重く受けとめた興福寺の住職・黙子如定は資金を出して、日本初の石造アーチ橋である眼鏡橋を完成させます。美しい2連アーチが川面に双円の影を落とす姿から、しだいに眼鏡橋と呼ばれるようになり、皇居の二重橋のモデルにもなりました。安山岩を加工してできた眼鏡橋の石材の接合には、漆喰が使われており、アクセントのある外観を作っています。興福寺は長崎居留の中国商人の菩提寺であり、中国が持っていた石造アーチ橋の架橋技術を導入することと、必要な建設資金を出すことが可能でした。

石材の接合に漆喰が使われている眼鏡橋

長崎に石造アーチ橋をもたらした長崎在留中国人

1634年の眼鏡橋を皮切りに、中島川には1681年のすすき原橋まで、12の石造アーチ橋が架けられましたが1つを除きすべて中国人によって架けられました。長崎の貿易で大きな利益を挙げた中国商人は、潤沢な資金と中国の高い土木技術を背景に、橋の建設などの公共事業を進めることにより、長崎を治める長崎奉行との関係強化をはかりました。建設された石橋は、洪水で流されたり、欄干を流されたりしましたが、掛町と呼ばれる町が修繕を行うようになり、時代が下がると、橋の架け替えや修繕は長崎奉行が行うようになります。木橋よりも洪水に強く、長崎の繁栄を支えた頑丈な石橋は、町の大切な公共財として維持管理が行われるようになりました。中島川の石橋群で培った架橋技術は、九州全域に多数存在する石橋へと技術が伝播したと言われています。また以前取り上げたことのある岩国の錦帯橋も、中島川の石橋群を参考にしました。

長崎大水害で大破したが、江戸時代の頃の姿に復元された桃渓橋

中島川の石橋群に大きな損害が出た長崎大水害

武士の世が終わり明治時代になると、中島川は水運の役割をしだいに失っていきましたが、石橋群の景観は長崎の顔として市民に親しまれてきました。昭和20年の長崎市への原爆投下では、中島川に架かる常盤橋が米軍の投下目標とされていましたが、当日の悪天候で浦上地区に投下されたため壊滅的な被害を免れました。そして戦後の復興、高度経済成長を経た昭和57年、記録的な豪雨が長崎地方を襲います。いわゆる長崎大水害と呼ばれる災害で、中島川の石橋は6つ崩壊するなどの大きな損害が出ました。眼鏡橋は欄干などが損壊しましたが、本体のアーチ部分は残り、翌年に再建されました。また眼鏡橋周辺の景観を損なわないように治水事業を進めるためにバイパス河道を造り、洪水に強い中島川になりました。しかしコンクリート製のものに架け替えた橋もあり、長崎大水害で、石橋の数は減りました。


長崎の歴史を感じる中島川の石橋群

長崎は室町時代末期までは深江浦と呼ばれる寒村でしたが、1570年にこの地を治めていた大村純忠が、南蛮貿易の拠点として開港したことをきっかけに、しだいに発展していきました。当時の長崎は、現在の諏訪神社辺りから海に向かって長い岬が突き出していました。この長い岬が「長崎」の地名の由来という説があるように、開港当時の長崎はこの岬を中心にして町が形成されていきます。江戸時代初期の中島川は、この長い岬を通って海に流れる水運の利がある河川でした。長崎の港から荷揚げされた物品は、小舟に乗せて中島川流域の町に運び商売が行われていました。現在、観光地や長崎市民の憩いの場所となっている中島川は、長崎の発展に大いに寄与した歴史のある河川でもあります。数々の水害や原爆の惨禍から立ち上がってきた中島川の石橋群の歴史は、長崎の悲哀に満ちた歴史が地層のように積み重なっているように見えます。みなさんも眼鏡橋をはじめとする中島川の石橋群を訪れてみて、歴史が積み重なった景観を味わってみてはいかがでしょうか。

味わいのある石造りの眼鏡橋

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