戦後取り壊されず周囲の自然と溶け込むように風化した旧日本海軍の遺構、米軍の本格爆撃を受けず稼働した軍の試験場が平和な時代を生きる我々に語りかけてくる片島魚雷発射試験場跡

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大村湾

 

戦後、手つかずのまま風化していった片島魚雷発射試験場跡

長崎県川棚町にある片島魚雷発射試験場跡は、旧日本海軍が魚雷の性能を確認するために建設された軍事施設です。軍事機密のまま資料などが処分されたため、詳しいことはわかっていませんが、射場や探信儀領収試験場、観測所、貯水槽などの跡があります。旧日本軍が造った試験場の多くは、土地開発などによって昭和30年代に取り壊されてしまいましたが、片島魚雷発射試験場の遺構は、ほぼ完全な形で残りました。戦後は廃墟となり、手つかずのまま風化していった片島魚雷発射試験場跡を舞台に映画のロケ地になったり、アニメのモデルとなったりもしています。今回は、片島魚雷試験場跡の魅力に触れながら、その歴史に迫っていきます。

片島魚雷発射試験場跡の「射場」

片島魚雷発射試験場の開設を契機に発展した川棚の町

明治時代になると政府は、富国強兵政策の名のもとに海軍力の増強をはかりました。そして現在も長崎県を代表する港町となっている長崎と佐世保では、多くの軍艦が造られるとともに、魚雷兵器の製造も行われるようになります。そして大正7年には、佐世保海軍工廠に近く、大村湾に浮かぶ片島に、魚雷試験場が建設されます。片島魚雷試験場は、主に佐世保工廠と三菱兵器製作所で製造された魚雷を試験し、性能を確かめた上で軍に納品していました。片島のある川棚の町は、明治時代は小さな農漁村でしたが、片島魚雷試験場が開設されたこと契機に人口が増え、発展していきます。

太平洋戦争時に埋め立てられ陸続きになった所から片島を望む

太平洋戦争の激化で、規模が拡張された片島魚雷発射試験場

太平洋戦争が激化した昭和17年には、魚雷を製造する川棚工廠が建設されました。これまでの佐世保工廠と三菱兵器製作所に加えて川棚工廠で製造された魚雷の試験を受け入れたことにより、実験の許容量を増やすために片島魚雷試験場は拡張されます。そして片島は九州本土と陸続きになる埋め立てが進められ、現在のような半島のような形状になりました。また、数多くの成人男性が戦地に赴くようになったため、片島魚雷試験場は人員不足に陥ります。そのため片島での発射試験に学徒動員された中学生や女学生、挺身隊員たちが参加するようになります。昭和19年には、横須賀から魚雷艇の訓練所が片島の近くに移設されます。人間魚雷の回天や人間機雷の伏龍など、数万人にも及ぶ特攻要員の養成が行われ、訓練や実戦配備で多くのの人命が奪われました。

片島魚雷発射試験場跡の「探信儀領収試験場跡」

大規模な空襲を受けなかった川棚の町

軍の施設が整備され、とくに太平洋戦争末期にたくさんの悲劇を生んだ川棚の町。しかし終戦を迎えるまで、米軍から軍事施設や軍需工場を狙った大規模な空襲を受けませんでした。軍や工場関係者の間には米軍は魚雷工場を、ビール工場と勘違いしていたのではないかなどの憶測が流れていたようです。しかし米軍は偵察機からの航空写真で、早くから川棚にある軍事施設や軍需工場の内容を正確に捉えていました。ただ、日本側が思っている程、米軍には戦術的価値を見いだせなかったらしく、結果的には狙われなかったようです。

風化しながらも残る「射場」にある塔

穏やかな海と風化した遺構のコントラストが美しい「射場跡」

現在の片島魚雷試験場は片島公園として、見学しやすいように整備されています。駐車場から程なく歩くと、海に突き出たコンクリートの道とその先に塔のような廃墟があります。ここは発射試験の際に魚雷を発射させていた「射場」という場所です。波が穏やかな大村湾にあり、しかも周辺が深い海であったことから魚雷発射に適していると判断され、片島に魚雷試験場を建設したとのことです。穏やかで清々しい海と、年月を経て風化した片島の遺構とのコントラストが美しく、思わず息を飲んでしまいます。

魚雷を運ぶためのレールが敷設していた溝がのこるコンクリート橋

現在も残るレールの溝

塔へ向かうコンクリートの道にはレールの溝の跡があります。当時はレールを使ってトロッコを走らせていました。現在は溝しか残っていませんが、その風化した溝から、トロッコに載せて魚雷を運んでいた様子を想像することが出来ます。魚雷の発射試験では、水中を真っ直ぐ走れるかや燃費、性能を確かめていました。試験では火薬を詰めていなかったので、爆発はしなかったのですが、民間の船舶に試験中の魚雷が当たって10人が漂流する事故がありました。

片島魚雷発射試験場跡の「空気圧縮喞筒所跡」

頑丈な造りでアニメのシーンにも使われた「空気圧縮喞筒所跡」

射場から陸側に目を遣ると、空気圧縮喞筒所跡が廃墟となって残っています。ここは魚雷の推進力となる圧縮空気を装填していたのではないかと考えられる場所です。試験を行う前の最終チェックをおこなっていた場所でもあり、壁厚50cmもある頑丈な造りをしていました。下部は石材、上部はイギリス積みの煉瓦と味わいのある構造で建てられており、平成27年のアニメ映画「バケモノの子」のシーンに使われています。さらに奥へ行くと、探信儀領収試験場跡があります。ここは、旧日本海軍が開発していたレーダーをテストする場所でした。海に突き出たところに建屋があり、現在は建屋までの道は崩落しています。そのため離れ小島となっています。

 

片島魚雷発射試験場跡から感じとれるもの

片島の頂上には観測所が設けられ、発射試験の指揮と魚雷の航路を観測していました。現在は経年劣化により、2階の床が抜け落ちていますが、はしごを伝って見る2階からの大村湾の眺めは素晴らしいものがあります。波穏やかな大村湾と、戦後廃墟となり、劣化していった片島魚雷発射試験場の遺構とは相性がよく、朽ちていく自然美というものを感じます。片島魚雷発射試験場跡のコンクリートの無機質な世界に植物たちが彩りを添えるように元気に育っている様子は、戦後の積み重ねた年月を感じずにはいられません。片島魚雷発射試験場を知る手がかりとなる文書などの資料は、その大半が軍事機密のまま処分されたため、当時の実相に迫ることを難しくしています。しかし片島魚雷発射試験場跡に来れば、多くの人々の人生が戦争によって犠牲になったことは紛れもない事実であることを感じることができます。皆さんも片島魚雷発射試験場跡を訪れてみて、廃墟となった旧日本海軍の軍事施設から発せられるものを感じとってみてはいかがでしょうか。

片島魚雷発射試験場跡の「観測所跡」から大村湾を望む

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