神功皇后と応神天皇の伝承を受け古代の八幡信仰の中心となり全国の八幡神社の原型となった名社、積み重ねた伝統とその風格がそこはかとなくにじみ出る大分八幡宮

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仲哀天皇

 

神功皇后にまつわるいわれが深い大分八幡宮

福岡県飯塚市にある大分八幡宮は、神功皇后と神功皇后の子で、全国にある八幡宮の御祭神となった応神天皇ゆかりの地にある神社であり、現在の福岡市東区に鎮座する筥崎宮の元宮でもある由緒ある神社です。朝廷からの崇敬も厚く、九州でも大きな規模を誇る神社でしたが、戦国時代の戦乱で境内が荒廃してしまいます。現在の社殿は戦国大名の秋月氏が再建されたものですが、神社の裏山には応神天皇の父である仲哀天皇の御陵ではないかといわれている丘があったりして、往時の威光が偲ばれる遺構もあります。今回は、神功皇后にまつわるいわれが深く、戦国の戦乱にあいながらも、伝統を守り続けてきた大分八幡宮について迫っていきます。

推定樹齢が700~800年とされる大分八幡宮の大楠

大分の地でしばらく政務をとり、遠征軍を解散した神功皇后

199年に仲哀天皇は、熊襲討伐のために現在の福岡市東区にあった橿日宮に立ち寄り託宣を受けました。託宣では朝鮮半島にある新羅を攻めよとされましたが、仲哀天皇は予定を変更せず熊襲を攻めました。しかし翌年の200年に仲哀天皇は急死してしまいます。仲哀天皇の死後、摂政となり政治の実権を握った神功皇后は、新羅を攻めることを決め、自ら軍を率いて朝鮮半島に渡り、三韓征伐を行います。新羅を平定し帰国した神功皇后は、仲哀天皇との間で身ごもっていた子である応神天皇を現在の宇美八幡宮のある宇美の地で出産しました。その後神功皇后は、赤ん坊の応神天皇を連れて「宇美」から今回の主題となっている「大分」の地に移動し、しばらくの間政務をとりました。「大分」は、神功皇后が遠征のために率いてきた軍隊を解散した場所といわれており、当時の人々は解散を大分かれ(大分かれ)と読んでいたことに地名の由来があるとされています。

江戸時代中期に建立された大分八幡宮の総門

全国の八幡神社の原型となった大分八幡宮

大分八幡宮は、奈良時代の726年に創建された古い神社で、奈良・平安時代には、八幡信仰の中心の役割を担った歴史的にも重要な神社です。当時、九州の行政機関のあった大宰府と応神天皇の神霊が現れたと伝えられる宇佐神宮を結ぶ陸路の拠点に位置する神社であり、鎮西第一といわれる壮麗な社殿を有する神社でした。御祭神は、応神天皇、神功皇后、そして玉依姫の命です。玉依姫の命は、神武天皇の御母君であり、神功皇后の守護神でした。玉依姫の命を加えた三柱を主祭神とする八幡神社は、全国でも数多くありますが、その原型となったのは大分八幡宮です。

大分八幡宮の放生池

由緒正しき名社として、朝廷の崇敬を受けながら発展する大分八幡宮

平安時代の923年には、大分八幡宮の八幡神が博多湾岸の筥崎に遷座する出来事がありました。しかし火災による消失を受けて行われた1071年の再建では筥崎宮と同規模の本殿であったと記録されており、大分八幡宮は筥崎宮へ遷座した後も由緒正しい名社として存続していきます。九州五所別宮第一に位置付けられた大分八幡宮は、神事祭礼の際には大宰府の在庁官人が参詣して執り行われるなど、代々朝廷の崇敬を受けて発展していきます。

皇室古墳埋蔵推定地となっている大分八幡宮の丘陵地

皇室古墳埋蔵推定地となっている大分八幡宮の丘陵地

戦国時代の戦乱で衰退した時期もありましたが、戦国大名の秋月種実が、現在の社殿の場所に再建します。かつての大分八幡宮は、現在の社殿の後背地にあたる丘陵地に荘厳な社殿があり、その存在感は大きなものであったと考えられます。かつて社殿が存在した丘陵地は、嶽宮あるいは元宮と称され、礎石や石積みが地表に現れ、石塔のかけらや瓦が散在しています。この元宮のある丘陵地は、八幡大神である応神天皇の父、仲哀天皇の御陵であるという伝承があり、皇室古墳埋蔵推定地として詳しく調査を進める予定でした。当時の宮司の願いで発掘調査などは中止となりましたが、大分八幡宮の丘陵地には、考古学者の学問的期待がかけられている聖地のような場所です。

 

大分八幡宮の放生会

放生会として知られる大分八幡宮の秋の例大祭は、9月の最終土曜日と日曜日に行われています。放生会は、魚や鳥などの動物を放つ仏教の法会に由来するものです。戦いの神である八幡大神は殺生が多いため、その罪を悔いるために仏教に救いを求めました。そのため八幡信仰では仏教と融和した神仏習合が特に進みました。大分八幡宮の放生会は、始まった頃がわからないほどの古い伝統がありますが、戦国時代の戦乱で一時途絶えました。その後江戸時代の1721年に復活し、流鏑馬や獅子舞なども江戸時代の中期に再開されていき、神事祭事が整えられました。現在では土曜日に祭座と獅子舞、日曜日は祭典、獅子舞、流鏑馬、餅まき、御神幸祭が執り行われ、いにしえから伝わる文化を今に伝えています。

 

並々ならぬ由緒と風格を感じる大分八幡宮

大分八幡宮は、飯塚市街地を通る遠賀川水系の奥まった所にあり、そこから先は高い山々がそびえています。神功皇后は、赤ん坊の応神天皇を竹で編んだショウケと呼ばれる小さなカゴに入れ、宇美から険しい峠を越えて大分にたどり着いたとされています。この神功皇后が越えたといわれている峠は「ショウケ峠」と呼ばれ、自動車道となった現代でもヘアピンカーブの続く難所の峠となっています。このように九州北部には、神功皇后や応神天皇にまつわる伝承や言い伝えが多くあり、大分八幡宮はその中でも神功皇后が政務をとり、遠征軍を解散したといわれる並々ならぬ由緒のある神社です。境内にある数々の整った鳥居や門の配置、社殿の調度品などの精巧さを見れば、全国の八幡信仰の原型となり、その発展の礎となった大分八幡宮の並々ならぬ風格を感じることができます。皆さんも大分八幡宮を訪れてみて、この八幡宮の素晴らしさに触れてみてはいかがでしょうか。

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