奈良・平安時代の先進的な仏教文化が集まった国家的な寺、律令国家衰退後も民衆の観音信仰を集め1300年余も大宰府を見守ってきた歴史ある梵鐘のある観世音寺

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天智天皇

 

古都大宰府が偲ばれる観世音寺

福岡県太宰府市にある観世音寺は、百済への救援軍派遣の為に筑紫(現在の福岡県)に赴き、この地で没した斉明天皇を供養するために創建された寺院です。観世音寺が完成した746年は、東大寺、唐招提寺などが残る天平文化が花開いた時代にあたります。大宰府政庁の近くに創建された観世音寺は「府の大寺」と呼ばれ、奈良・平安時代の西海道(現在の九州地方)の仏教寺院の頂点でした。現在でも仏教芸術の粋を極めた仏像など、観世音寺に集まった当時の先進文化が残っています。今回は大宰府政庁、大宰府天満宮とともに古都大宰府が偲ばれる場所である観世音寺について迫っていきます。

610年に高麗の僧が小麦をひいたといわれる天平石臼

鎮護国家の寺院として造営

斉明天皇の子である天智天皇の発願によって始まった観世音寺の造営は、大宰府政庁によって進められました。当時の日本は百済の支援の為に朝鮮半島に出兵した白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、朝鮮半島での拠点を失いました。また唐と新羅が日本へ侵攻する恐れが高まり、大宰府周辺に水城や大野城などの巨大要塞を築き、大陸からの脅威に備えます。そんな時代に造営が始まった観世音寺は、唐・新羅の来襲から仏教の力で大和朝廷を守る鎮護国家の色彩の強いものとなりました。

壮大な伽藍配置であった観世音寺

観世音寺は、天智天皇の発願から746年の落慶法要まで約80年もの歳月をかけています。これ程、長期間完成しなかった理由として、大陸からの脅威に対応するために防衛網の整備が優先されたことや、疫病の蔓延、藤原広嗣の乱などの戦乱が続いたことなどが挙げられます。様々な要因で工期がズレにズレ込んでようやく完成した観世音寺は、国家の寺院として九州の仏教の中心的な役割を担いました。1970年代から始まった観世音寺の発掘調査によると、創建時の観世音寺は約170m×170mの敷地を塀で囲い、南に南大門、北側に北門を設け、内部に講堂や塔、金堂がある大規模な伽藍配置のお寺であることがわかりました。太宰府政庁は、太宰府に壮大な観世音寺を建立することによって、九州における大和朝廷の外交や政治の安定をはかりました。

戒壇院

戒壇院が設置される

 746年の落慶法要から15年後の761年に観世音寺境内の南西隅に戒壇院が設置されます。戒壇とは、僧侶として戒律を授けるところで、ここで戒を受けなければ正式の僧として認められない場所でした。755年に鑑真が東大寺に戒壇院を設置したのが始まりで、九州の観世音寺、東国の下野薬師寺に戒壇を設け、この三か所の戒壇を「天下の三戒壇」と呼びます。観世音寺が戒壇院を設置したことで、現在の九州地方である西海道諸国の僧尼の官僧資格付与権限を手中に収めることになり、仏教界を通して太宰府政庁の権力拡大にも、貢献することにつながりました。戒壇院は、長い年月を経て罹災し再建を繰り返しながらも、現在に至っています。江戸時代に観世音寺を離れ禅寺となり、1743年に再建された現在の本堂は、本尊で重要文化財にも指定されている毘盧舎那仏を安置し、他にも弥勒菩薩、文殊菩薩、鑑真和上像、弘法大師像が祀られています。

仏教寺院としての権勢を喪失した観世音寺

観世音寺は大宰府政庁の権勢を背景に、九州の寺院の中心的存在として大いに発展していきます。最盛期には49もの子院を擁した観世音寺でしたが、941年に藤原純友の乱で大宰府が焼き払われたことをきっかけに、その勢いは衰えていきます。さらに災難が続き、1064年には観世音寺の講堂、塔、回廊が消失する火災に見舞われました。この火災によって仏像も消失し、往時の勢いを失った観世音寺にとって、元どおりに修復することが困難になる程の手痛い損害を被りました。やがて武士が台頭する時代になると、観世音寺の経済的基盤となっていた領地も武士に奪われるようになります。武士が政治の実権を握るようになった鎌倉時代では、観世音寺は九州の仏教寺院の頂点という地位を喪失し、東大寺末寺として細々と法灯を守っていくこととなりました。

 

数多くの仏教美術に圧倒される宝蔵

鎌倉時代以降の観世音寺は、観音信仰の寺へと移り変わり、民衆の崇拝を受けながら廃寺の危機を乗り越えていきました。江戸時代になると、この地を支配した黒田氏によって講堂が再建され、一応の寺観を備えた寺院に復興します。そして昭和34年には、国、福岡県、財界の有志によって仏像を災害から守るために観世音寺境内の東に校倉造に似せた宝蔵が建設されました。宝蔵は、観世音寺に伝わる平安時代から鎌倉時代にかけての仏像18体のうち16体を安置しており、高さ5mほどの仏像が並んでいる様子には圧倒されます。重要文化財に指定されている仏教美術が数多く収容されている宝蔵は、観世音寺の一番の見どころだと言っても過言ではないでしょう。

 

観世音寺の梵鐘で古代を思う

境内を歩くと巨大な伽藍を示す礎石などが残り、古代の繁栄を今に伝えている観世音寺。梵鐘は、その古さにおいて日本一と称され、現在の福岡市東区の多々良で鋳造されたとされています。大宰府に左遷された菅原道真は、「都府楼はわずかに瓦色を看る  観世音寺は唯鐘声を聴く」という漢詩を残しています。古代の人々も同じ観世音寺の鐘を聴いていたのかと思うと、その心が古代へとその心が誘われていくように感じます。皆さんも観世音寺を訪れてみて、古代からこの寺が積み重ねてきたものに、触れてみてはいかがでしょうか。

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