入り江を生かした福岡城の大堀を埋め立てて大きな池にした人工的な公園、環境保全をはかり都市部にありながらも豊かな自然と生態系を守った大濠公園

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博多湾

自然に恵まれた大濠公園

福岡県福岡市にある大濠公園は、数多くの植栽された樹木やたくさんの野鳥が訪れ亀が生息する水辺、池の中を泳ぐ鯉など、一年を通して豊かな自然に触れることのできる公園です。また福岡市の中心部である博多や天神からも地下鉄やバスで気軽にいける福岡市民のオアシス的存在の公園でもあります。大濠公園は、公園面積39.8haに対し池の面積が22.6haと約半分以上を池が占める全国有数の水景公園です。もともと博多湾の入り江だった場所を江戸時代は福岡城の外濠、大正末期からは博覧会会場、そして昭和に入ると憩いの公園として開発していった歴史が大濠公園にはあります。このような海から育んだ自然豊かな場所を開発した大濠公園は、豊かな生態系に恵まれた景観の美しい公園になりました。その一方、人の手が加えられてしまったため、その美しい景観を維持することに、相当な努力が必要であったことも事実です。今回は、大濠公園へ至る開発の歴史に触れながら、大濠公園の魅力に迫っていきます。

大濠公園の池の周回道路を移動する人々

もともとは入り江だった大濠公園

江戸時代以前の大濠公園周辺は、草ヶ江と呼ばれる博多湾の入り江でした。関ケ原の戦いの後に福岡を治めた黒田長政は、居城となる福岡城の築城に際して、この入り江の一部を福岡港を築き、南の入り江は福岡城の外濠として城の守りとしました。入り江だった昔の大濠公園周辺は、福岡城の天然の要害として、重要な堀の役割をしていたのです。大濠の名前の由来となる「大堀」がこの頃から使われるようになりました。やがて明治時代なると、廃藩置県で福岡城は廃城となります。福岡市の中心部である現在の天神にあった肥前堀は埋め立てられたのですが、水の循環が滞るという結果を招き、夏にはやぶ蚊が大量発生するなどの環境悪化が進みました。そのため実現には至りませんでしたが、明治末期から大堀を埋め立てる計画がいくつか立てられています。そして、大正14年に東京大学農学部の本多静六教授らの進言により、福岡市での開催が予定されていた東亜勧業博覧会の会場として大濠公園を整備することになりました。

大濠公園の過半部を占める池と中の島

福岡のビックプロジェクトであった大濠公園の工事

「日本の公園の父」と呼ばれた本多教授は、福岡を訪れた際に、現在の西公園から見下ろした大堀を見て、ここを公園にすることを主張しました。大堀には海の養分が豊富な沼沢地と、もともと入り江であった水辺の美しい景観が広がっていました。造園家でもあり、数々の公園を設計・改良した経歴を持つ本多教授の目には、豊かな自然に恵まれた美しい景観の公園の姿が浮かんだのかもしれません。大濠公園の工事では約23.4haの沼沢地を浚渫して池として残し、周辺を福岡市内で行われた道路の開削工事で排出された土砂を使って埋め立てました。また大濠公園を美しい景観にするために、中の島を造成し、海へ通じる水路を開削します。こうした大規模な工事を経て、博覧会場が完成しました。昭和2年に東亜勧業博覧会が開催され、その終了後に池を周回する道路や遊園地が整備されます。こうして大堀を再開発する福岡のビックプロジェクトは、昭和4年に県営大濠公園として開園することで終了しました。

中の島にある松林

課題となった大濠公園の環境問題

大濠公園の中心部を占める大濠池は、中国の西湖を模して造られたといわれ、北から柳島、松島、菖蒲島が浮かび、菖蒲島の北西方向には小さな鴨島が浮かびます。鴨島以外の島には、大濠公園が建設された頃から松が植えられました。広大な水面と松林の島々が見せる美しさは、大濠公園の象徴的な景観と言ってよいでしょう。そんな自然の美しさが際立っている大濠公園ですが、人工的に造られた公園だけに、それを維持することに並々ならぬ努力が必要でした。もともと入り江を埋め立てて出来た大濠公園は流入河川がなく、泥が蓄積されていく一方でした。昭和40年代に入ると、池の底の泥炭が増えたことによる水の富栄養化が進みます。悪臭が漂い、魚の死骸が浮いているような状態が日常化していくと、池の浄化が大濠公園を管理・運営している福岡県の課題となりました。

大濠公園の鯉と水鳥

池の水を抜いて行われた大規模な浄化作業

大濠公園の環境悪化を看過できなくなった福岡県は、池の浄化に向けて動きます。昭和63年6月から本格的な排水がスタートしました。池の水を黒門川経由で博多湾に排出した後に、池の底にある泥を乾燥した上で薬品で固め、池の底に埋めるという計画です。池の水を抜く前に自衛隊の協力を得て行った金属探査では、昭和20年の福岡大空襲で投下されたと思われる焼夷弾が11発見つかり、処理されました。その後水が抜かれ、計画されていた泥の処理が終わり、再び水を戻す作業が始まったのが翌年の平成元年2月になりました。大濠公園の池は半年以上干上がったことになります。池の魚は、干上がる前にフナやライギョなど6万匹あまりを捕獲し、大半は福岡県内の河川に放流しましたが、フナなどの一部は養魚場に避難させ、浄化作業完了後に戻しました。池の水は、雨水と地下水、そして黒門川を通じて一部海水を取り込み汽水としました。また、再び池が富栄養化することを防ぐために、平成3年に黒門川の横に浄化施設を造りました。こうして大濠公園は、豊かな自然を人工的に維持できるようになりました。

園内の改良を加えながら、魅力を積み重ねていった大濠公園

昭和4年に開園した大濠公園は、環境保全と園内の改良を加えながら、現在に至っています。大濠公園の池に突き出して建てられている浮見堂は、太平洋戦争で閉園した東公園の動物園から移築したものです。もともとはオットセイなどの動物を見るための建物だったそうで、そのようなことを考えると感慨深いものがあります。昭和50年代には、大濠公園の敷地内に、福岡市美術館、武道館などの建物や日本庭園が設けられ、文化やスポーツ施設としての機能も有するようになります。平成に入ると池を周回する道路が整備され、外側がサイクリングコースの舗装道路、中央部が足に優しくジョギングに適するといわれるゴムチップ舗装のジョギングコース、そしてツツジや柳を植栽したグリーベルトがあり、内側(池寄り)にレンガ敷の遊歩道になっています。一周2kmの周遊道路には、いつもジョギングやウォーキングをしている人々の姿が絶えなく見かけられます。緑が豊かな大濠公園は、珍しい野鳥が生息しており、バードウォッチングや自然散策にも適しています。福岡の発展とともに新たな魅力を積み上げてきた大濠公園。皆さんも大濠公園を訪れてみてはいかがでしょうか。

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