平家滅亡の関門海峡に隣接する神宮、安徳天皇と平家一門の菩提を弔う仏教寺院の歴史を持ち現在に源平合戦を伝える赤間神宮

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下関市

 

安徳天皇や平家一門の鎮魂の思いが詰まった赤間神宮

山口県下関市にある赤間神宮は、平清盛の孫にあたる安徳天皇を祀った神社です。安徳天皇は赤間神宮から程近い関門海峡で行われた檀ノ浦の戦いで平家が負け、平家一門とともに入水し、幼くして非業の死を遂げました。赤間神宮には安徳天皇のお墓である安徳天皇陵や、檀ノ浦で滅んだ平家一門のお墓があり、安徳天皇や平家への鎮魂の思いが詰まっています。また平家の亡霊が登場する「耳なし芳一」の舞台となったとも言われており、戦いに負けて滅亡した平家の武者の悲哀が感じられる場所でもあります。今回は檀ノ浦で滅亡へと至った平家の歴史に触れながら、赤間神宮について掘り下げていきます。

水天門より本殿である大安殿を望む

平清盛を外祖父として誕生した安徳天皇

平安時代末期に政治の実権を握った平清盛は、権力を揺るぎないものにするために、その娘である徳子を高倉天皇に入内させました。高倉天皇とその中宮となった徳子(後の建礼門院)との間に誕生した子が、赤間神宮の主祭神となる安徳天皇となります。1180年には祖父である平清盛の絶大な権勢によって、わずか2歳にして天皇に即位します。しかし翌年の1181年に平清盛が死去すると、平家はその勢いを急速に落とします。平家打倒の挙兵をした木曽義仲に平家軍は敗北し、1183年には都を落ちました。安徳天皇も平家一門とともに都を落ち、行動を共にします。平家としても、天皇とその正統性を誇示するために、天皇と三種の神器は譲れないものがあったのでしょう。

赤間神宮にある安徳天皇阿弥陀寺陵の門

平家滅亡で、幼い年齢で崩御した安徳天皇

平家に変わって都に入った木曽義仲は、源義経率いる鎌倉の源氏の軍勢に敗れます。平家は懸命に勢力回復に努めますが、平家追討の軍の大将となった源義経との戦で敗北を重ねます。そして追い詰められた平家は、檀ノ浦の戦いに挑みますが、源義経の軍勢に敗れ、安徳天皇と平家の多くの武将は海に入水し、最期を遂げました。安徳天皇の外祖母にあたる二位の尼(平時子)は、安徳天皇を抱いて「浪の下にも都の候ぞ(浪の下にも都がございますよ)」と慰めたと伝えられています。安徳天皇はわずか8歳という幼い年齢で崩御し、また天下を取り栄華を誇った平家は檀ノ浦の地で滅亡しました。安徳天皇の亡骸は、赤間関の阿弥陀寺に埋葬され、後に源頼朝の命により阿弥陀寺に御影堂が建てられました。この阿弥陀寺は、明治時代に現在の赤間神宮となります。

赤間神宮の芳一堂

安徳天皇と平家一門の菩提を弔う寺になった阿弥陀寺

赤間神宮の前身である阿弥陀寺は、平安時代の859年に大安寺の僧であった行教により、浄土宗の寺として創建されました。1185年に寺の近くで起きた壇ノ浦の戦いで、平家が滅亡します。その後の阿弥陀寺は、安徳天皇と滅亡した平家一門の菩提を弔う寺となります。そんな阿弥陀寺を舞台にしたといわれ、平家一門の悲哀を感じる物語となったのが「耳なし芳一」です。赤間神宮の境内には、平家一門の合祀墓とされる七盛塚があり、その傍らに芳一を祀った芳一堂があります。琵琶法師の芳一は、壇ノ浦で亡くなった平家の怨霊から請われて、檀ノ浦の悲話を語ります。これを知った芳一の和尚は、怨霊から見られないように芳一の体に般若心経を書き記しました。そして夜に芳一を迎えに平家の怨霊が訪れますが、芳一の姿は見えません。しかし和尚は一つ失態を犯していました。耳に般若心経を書いていなかったのです。そこで平家の怨霊は強引に芳一の耳をもぎ取って帰りました。芳一は血だるまになって気を失ってしまいます。その後、芳一の耳の傷が癒え、怨霊も現れることはなかったとして物語は終わりますが、檀ノ浦で露と消えた平家のもの悲しさを感じずにはいられません。

赤間神宮の大安殿

時代とともに変遷していき、仏教寺院から官弊大社となった赤間神宮

壇ノ浦の戦い後、安徳天皇と平家一門の菩提を弔う寺院となった阿弥陀寺は、皇室や武家の崇敬を集めるようになり、中でも下関を支配して勢力を誇った大内・毛利両氏は、厚く庇護しました。阿弥陀寺は、江戸時代には真言宗に改宗し、1652年には長州藩から57石の石高を与えられるなど、その勢いを強めました。明治時代になると、明治政府の神仏分離令により阿弥陀寺は廃され、明治8年の明治天皇の勅定により安徳天皇を祭神とする赤間宮となりました。昭和15年には官幣大社となって社号を現在も使われている赤間神宮に改めます。太平洋戦争では、交通の要衝関門海峡に隣接していることもあって米軍機による度重なる攻撃を受け、赤間神宮境内は焼け野原になりました。

 

諸行無常を感じる赤間神宮

現在の赤間神宮は戦後再建されたもので、安徳天皇を偲び、浪の下の都がイメージできるような造りとなっています。入り口にある水天門は、昭和32年に建立された竜宮造りの華やかな門です。この水天門の名称は、安徳天皇が水天大神と称せられたられたことに由来します。毎年5月2日から3日間は赤間神宮の祭事である「先帝祭」が行われ、大夫や身分の高い遊女の姿をした行列が、安徳天皇の御廟所に参拝する「上臈参拝」が行われます。平家滅亡後、仕えていた女官たちは生きるために遊女になったといわれています。栄華を誇った者が、時代の流れに逆らうこともできず退出させられる悲しさ、いわゆる諸行無常を感じずにはいられないものが、赤間神宮にはあります。赤間神宮には、神社となった現在も、安徳天皇や平家一門を弔う場所です。皆さんも赤間神宮を訪れてみて、遠い昔の源平合戦に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

赤間神宮の水天門

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