苦難の歴史を乗り越えて継承していった琉球王家の別邸、様々な植物が栄え様々な文化が共存する美しい識名園

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庭園

 

日本、中国、琉球の文化が融合した識名園

沖縄県那覇市にある識名園は、1799年に完成した琉球王家の別邸です。当時の琉球王家には3ヵ所の別邸があり、その中でも約1万2千坪あった識名園は最大規模の敷地を誇りました。識名園は、王のオフィシャルな居所である首里城から南に位置していたことから当時は「南苑」と呼ばれ、国王一家の保養や、中国からの冊封使の接待などに使用されました。和風様式の庭園に、琉球様式と中国様式の建造物がある識名園は、日本と琉球と中国の文化が融合した独特の味わいのある世界を生み出しています。そんな唯一無二の存在を放つ識名園ですが、昭和20年にあった沖縄戦では、破壊されてしまいます。その後、昭和50年から20年かけて再建が進められ、かつての輝きを取り戻しつつあります。今回は歴史に翻弄されながらも現在に至っている識名園に迫り、その魅力を探っていきます。

六角堂

中国の使節をもてなした識名園

首里城や玉陵と並んで琉球王朝を代表する歴史的建造物である識名園は、日本と中国の両国に従属する体制をとっていた江戸時代後期に造営されました。琉球は対外貿易で栄えた国であり、琉球を支配していた日本の薩摩藩は、琉球と当時中国の王朝であった清との朝貢貿易を推し進めます。朝貢貿易とは、朝貢国である琉球が貢物を清の皇帝に献上するかわりに、皇帝からそれをはるかに上回る価値の物品を授かることのできる形式の貿易で、薩摩藩は琉球を通して清と貿易することで大きな利益を得ました。中国の使節をもてなす目的で建てられた識名園は、清王朝との朝貢貿易が行われた時代ということもあって中国の建築仕様を積極的に取り入れました。日本と中国、そして琉球の文化が融合した識名園は、対外貿易が盛んに行われた当時の琉球を象徴する建築物でもあります。

御殿(うどぅん)から池を眺める

国王一家や外国からの客人をもてなした識名園

琉球王朝の時代、首里城と識名園、首里城と那覇港は、真珠道と呼ばれる石畳の道で結ばれていました。国王一家や外国からの重要な使者は、この真珠道を通って識名園を訪れました。そして識名園に着いた客人をもてなしていた建物が、園内でもひときわ目を引く御殿(うどぅん)です。赤瓦と木材でできた御殿は、琉球王朝時代の位の高い人々の住居に用いられた建築様式で建てられました。総面積約160坪、15部屋もある建物ですが、各部屋の前には、庭園の美しい景観が広がり、心地よい風が吹き抜けます。識名園の御殿(うどぅん)は、湿度の高い沖縄の気候にマッチした開放感あふれる広々とした構造となっています。また園内の池の水が下の平地へ流れ落ちる滝口付近には勧耕台と呼ばれる見晴らしの良い展望台があります。かつて琉球国王は中国の冊封使が来ると、海が一切見えず、陸地の広がりが見える勧耕台に案内しました。中国の要人にこの風景を見せることで、琉球は小さな島ではなく、これだけの広い国土を有しているとアピールしたとのことです。

育徳泉

複数の湧水がある識名園

識名園は、首里城と川を挟んだ台地の端にあり、園内には複数の湧水があります。湧水の一つで、透明度のある水が湧き出る育徳泉は、訪れた冊封使からもその素晴らしさを称えられました。泉の周りは、琉球石灰岩を琉球独自の技法を組み合わせた「あいかた積み」になっていて、優美な曲線が特徴的です。園内から湧き出た水は園内の池などに集まり滝となって台地の下へと落ちていきます。このようにたくさんの水が集まる識名園には大きな池があり、池の周りを歩きながら景色を楽しめる「廻遊式庭園」がメインの見学場所となっています。「廻遊式庭園」は、江戸時代の諸大名が競って作った庭園で、識名園では、「心」の字を崩した心字池を中心に散策路や築山、建物などが設けられました。御殿(うどぅん)や中国風東屋の六角堂、琉球石灰岩、石橋など、日本と中国、そして琉球が融合した独特の世界を具現化しています。識名園には、貿易立国の琉球王朝にふさわしい庭園が展開しています。

小石橋から大石橋を見る

米軍の攻撃で破壊された識名園

かつての識名園は、春は池の東の梅林に花が咲いて梅の香りが漂い、夏には中島や泉にあった藤、秋には池のほとりの桔梗が美しい花を咲かせ、亜熱帯地方の沖縄にいながら、日本本土の四季の移り変わりが楽しめるような巧みな配慮がなされていましたが、太平洋戦争の沖縄戦で破壊されてしまいます。昭和20年4月30日の早朝から米海軍の艦船は識名園を標的として一斉に艦砲射撃を行います。「大木が茂っていた識名園の森は完全に消し飛んでしまった。旧藩王の名園も裸にされでこぼこの地面だけが残ってしまった。」との記述があり、弾薬庫など日本陸軍の施設を抱えた識名園に対して、米軍のもの凄い攻撃があったことがわかります。戦後30年たった昭和50年から約20年、総事業費7億8千万円をかけて復元整備が施されました。平成12年にはユネスコの世界遺産に登録されるなど、かつての姿を取り戻しつつあります。

 

静寂な空気と豊かな自然、様々な文化が共存している識名園

識名園は、那覇市の繁華街である国際通りから車で約15分のところにあります。那覇市街地にあたり、周辺を住宅街で囲まれている識名園ですが、園内に一歩を踏み入れると静寂な空気に包まれた桃源郷の世界が展開します。ガジュマルなどの亜熱帯ならではの植物に加え、日本の四季を感じさせる花も園内随所に植えられ、訪れる人の目を楽しませてくれます。大きな心字池を中心にした廻遊式庭園である識名園は、池の周りを歩きながら景色の移り変わりが楽しめ、琉球石灰岩や、中国様式の建築物など、琉球ならではの味わいが感じられます。琉球王朝は、国際貿易によって栄えた王朝であり、識名園はそれを象徴するかのように、様々な文化が共存しています。薩摩藩による琉球支配や沖縄戦など、沖縄の苦しい歴史と供にしてきた識名園ですが、たくさんの傷を受けながらも耐え抜いて、素晴らしい文化を継承してきた姿勢は、感動と称賛するものがあります。皆さんも識名園を訪れてみて、素晴らしさに触れてみてはいかがでしょうか。

 

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