戦災で傷つきながらも、現在に幕末・明治の薩摩を伝える旧島津氏玉里邸庭園

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太平洋戦争

 

往時の薩摩藩を今に伝える庭園

鹿児島県鹿児島市玉里町にある旧島津氏玉里邸庭園は、薩摩藩第27代藩主島津斉興によって1835年に築庭された庭園です。島津氏の別邸として建てられた玉里邸は、広大な大名屋敷でしたが、太平洋戦争時の昭和20年に、米軍機による空襲で焼失します。しかし庭園部分は、部分的な被害を受けながらも残り、往時の薩摩藩の様子を今に伝えています。現在一般公開されている庭園「下御庭」は、どこから見ても味わえる回遊式庭園と、地域独特の材料・意匠が用いられており、鹿児島の風土とマッチした南九州を代表する江戸末期の大名庭園と言っても過言ではありません。今回は、旧島津氏玉里邸庭園が歩んだ足跡に触れていき、その魅力に迫っていきましょう。

木陰からの眺め

豊かな山林に囲まれた水をふんだんに使った庭園

藩債の整理などの強硬な藩政改革に打って出て、薩摩藩の財政再建に成功した薩摩藩主の島津斉興は、島津氏の居城である鶴丸城の北西、愛宕山の西麓に位置する丘陵に、別邸の玉里邸を造営します。玉里邸の東部分の平坦地には、主屋建築群が建てられ、「上御庭」と呼ばれる庭が造られました。東部分より一段低い西部分の平坦地には、「下御庭」と呼ばれる庭園と茶室が作られました。このあたりは甲突川の中流域にあたり、周辺の山から水が流れ込む水資源の豊富な地域です。玉里邸庭園にも、この地域の豊富な水をふんだんに利用した大きな池があります。自然豊かな山林を借景とし、大きな池を中心に据える旧島津氏玉里邸庭園は、同じ薩摩藩の庭園でも桜島を借景とし、錦江湾に接する仙厳園(磯庭園)とは違った趣があります。

茶室からの眺め

薩摩藩主島津斉興が建てた玉里邸

島津斉興は、別称「玉印」であったことから、自らが建てた別邸を、玉里邸と命名しました。玉里邸が完成してからは、国元である鹿児島滞在時に、鶴丸城と玉里邸を行き来する生活をおくります。やがて「お由羅騒動」と呼ばれる御家騒動が起こると、幕府から長子の斉彬に藩主を譲るよう圧力を受けます。不本意ながら藩主を斉彬にゆずり、隠居した斉興は、玉里邸を住みかとし、この地から斉彬の藩政を、傍観することになりました。しかし1858年に斉彬が急死すると、久光の子忠徳が藩主になり、藩主の祖父として再び薩摩藩の実権を握ります。翌年の1859年に斉興が没すると、藩の実権は藩主の父である久光が、薩摩藩の国父として握ることになりました。斉興没後の玉里邸は、斉興の養女勝姫が居住するようになります。

上御庭の動画

水と石を贅沢に使った上御庭

玉里邸の東部分にある主屋建築群の客間から眺められるように造られた上御庭は、楕円形の広い池と3つの築山で構成されています。このあたりの豊富な水資源と石をふんだんに使った贅沢な造りとなっていて、複数の侵食された石の水路から水が池に流れ、渓流の姿を演出しています。池の護岸はすべて石組み、池底には板石が敷き詰められ、水深が浅くなっています。池のなかには、亀の姿に形作った岩があり、別称「亀の池」と言われています。上御庭は現在、稀に限定公開されている期間を除いては、通常非公開となっています。

下御庭の茶室外観

石や土が赤黒色の下御庭

現在、一般公開されている玉里邸西部分の下御庭は、広い池があってその周りを回遊する園路がある池泉回遊式庭園です。下御庭の玄関となっている黒門から中に入ると、目の前に広い池、奥に茶室があります。茶室の東側には滝の流れ、池の中には島があったり、岬があったりしていて、変化に富んだ表情を見ることができます。また庭園内には、鹿児島独特の溶岩で出来た赤黒色の巨石や独特の意匠をもつ石灯籠が置かれています。土の色も赤黒色であり、これらの石や土が、玉里邸庭園の世界を構成しています。植栽は、松、モミジ、カシなどの日本庭園によく用いられる樹木が配置されています。隣接する上御庭も含めて、鹿児島地域独特の風土的特色がみられることから、学術上の価値が高く、豊富な水源を生かした庭園の構成・意匠は、芸術上の価値が高いものがあります。

園路を歩くと庭園の様々な表情が発見できる

 

島津久光が晩年を過ごした玉里邸

明治維新を成し遂げ、近代日本の礎を築いた功績の大きかった薩摩藩でしたが、世は無常なもので不平士族の反乱のあおりを、薩摩はまともに受けます。明治10年に、不平士族の反乱である西南戦争が起こると、鹿児島に敗走した西郷軍と政府軍の戦いで、鶴丸城と玉里邸は焼失します。鶴丸城に居住していた島津久光は、玉里邸を再築に着手し、明治12年に完成、移り住みます。下御庭の茶室は、久光が再建した時に建てられており、斉興時代の庭園に手を加えている所が多数あります。久光は晩年を玉里邸で過ごし、明治20年に亡くなります。葬儀は国葬となり、久光を送り出す黒門が急きょ造られました。

下御庭の茶室内部

太平洋戦争の無差別爆撃で、灰となった玉里邸

久光の没後は、久光の子忠済の別邸となります。明治維新の主役となった薩摩の地も大正、昭和と移り変わるにつれて軍事施設の建設拡充などが行われ、しだいに軍事色を強めていきます。玉里邸の近隣にも陸軍の練兵所が置かれ、軍服姿の軍人も多くなりました。そして太平洋戦争末期の昭和20年、米軍機による鹿児島市街地への空襲による火災で、玉里邸の主屋建築群は消滅します。島津斉興、久光が愛した邸宅は、戦争が招いた無差別爆撃で、灰と化してしまいました。現在、一部損壊の被害にあった玉里邸の庭園は現存し、主屋建築群のあった跡地は、鹿児島女子高校の敷地となっています。

後世へと残った旧島津氏玉里邸庭園

学術・芸術上の価値が高く、鹿児島市の名勝に指定されている旧島津氏玉里邸庭園。藩政改革を成し遂げ、薩摩藩躍進の基礎を築いた藩主島津斉興が、造営した旧島津氏玉里庭園。玉里邸庭園は、輝かしい幕末の薩摩藩とともに歴史の表舞台を歩み、日本史の表舞台を歩んだ時代の国父であった島津久光の死とともにその役割を終えたのではないかと思います。現在は鹿児島女子高校の敷地となり、この高校の職員や生徒の努力により庭園の維持がなされてきました。西南戦争、太平洋戦争の惨禍を受けながらも、後世へと残った庭園を眺めてみると、あらためて文化財に対するありがたみ、それを守ってきた人々への感謝がこみ上げてきます。みなさんも玉里邸庭園を訪れて、往時の薩摩藩の歴史に思いを馳せてみては、いかかでしょうか。

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