阿蘇の大噴火で出来た凝灰岩の上の城郭と城下町、大友宗麟の時代から積み重ねた文化と凝灰岩がうまく熟成した臼杵城と臼杵城下町

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二王座歴史の道

懐かしく、素朴な味わあいのある臼杵の町

大分県臼杵市にある臼杵城は、戦国大名の大友宗麟が築いた城で、臼杵城下町は、大友氏が臼杵城を本拠地とした頃から江戸時代まで、商業都市として発展していった町です。臼杵の町は、阿蘇山の大噴火によってできた火山灰がかたまってできた凝灰岩の上にあります。切り立った崖の上にある難航不落の臼杵城や旧武家屋敷町の二王座付近は、凝灰岩の露頭が顕著であり、独特な景観が目の前で展開します。凝灰岩の地形と、江戸時代から昭和初期の雰囲気を色濃く残した町を散策すると、現代ではないどこか異世界の町に来ているような感じがします。今回は、臼杵の城や城下町について述べ、臼杵の町の魅力について迫っていきます。

臼杵城の大門櫓へと至る鎧坂入り口

大友宗麟が臼杵を本拠地と定める

大友宗麟は、臼杵湾に浮かぶ丹生島という孤島に臼杵城を築城しました。干潮時に城下町方面と陸続きになるだけで、満潮時は四方を取り囲む海と凝灰岩でできた崖が、天然の要害となった難攻不落の城でした。大友宗麟は、現在の大分市である府内から、守りが堅固な臼杵に本拠地を移し、それと同時に大友氏直轄の新しい経済都市として、臼杵の町の形成にとりかかりました。大友宗麟は、臼杵を拠点に海外貿易を活発に行い、莫大な富を得ました。また外国の風土や学問、文化などを吸収していきます。特にキリスト教に関しては、大友氏の領地にキリスト教の教会を建て、大友宗麟自らがキリシタンになるなどキリスト教の保護を手厚く行いました。

大砲「国崩」

南蛮貿易で手に入れた大砲「国崩」

大友氏のキリスト教の保護政策により、ポルトガルとの関係が進展していきます。その結果、南蛮貿易で、当時の最新兵器であった鉄砲、大砲、火薬類などを豊富に入手することが可能になりました。最新兵器を充実させた大友氏は、九州でも抜きん出た軍事力を持つようになり、その勢力を拡大していきます。臼杵城に置かれた大砲は「国崩」と呼ばれ、並外れた破壊力のある大砲として近隣の武将から恐れられました。島津氏との戦いで実戦投入され、多数の死傷者を島津軍に出させる戦果がありました。臼杵の町は海外貿易の拠点として、また九州に一大勢力を誇った大友氏の城下町として発展し、その基礎を築きました。

江戸時代から続いている臼杵の商店街

江戸時代の町名や町割りが当時のまま残る臼杵の町

やがて大友家は、天下の覇権を握った豊臣家の配下となり、本領が安堵されます。しかし、文禄・慶長の役で豊臣秀吉の逆鱗に触れた大友家は、改易させられます。大友氏改易後の臼杵は、福島氏・太田氏の支配を経て、1600年に稲葉氏が臼杵城に入城しました。稲葉氏は明治の廃藩置県までの約270年間、臼杵藩5万石の大名として君臨し、臼杵の発展に関わります。臼杵藩は武士を臼杵城下に定住させるため、武家屋敷を整備しました。そして町人は、酒株、質屋株など、藩からの許しを得て商売を行い、13種の株以外の商売は自由営業とし、商業の発展をはかりました。臼杵は、江戸時代初期以降城下町の町名の変更もなく、町割りも江戸時代当時のまま現在に至っています。このことの大きな要因としては、明治以降に県都大分市のような市中心部の大規模な開発がなかった事が挙げられます。また、軍隊の駐留する軍都でもなく、軍需工場や多くの人口を抱える都市でもなかったため、太平洋戦争時の米軍の空襲も避けることができました。臼杵の町は江戸時代の名残を色濃く残す稀有な町です。

臼杵城の畳櫓から二王座方面を望む

臼杵独特の地形を生かした町づくり

福原・大原氏の統治時代に城と城下町を隔てる干潟部分の埋め立てが完了し、潮の満潮時も城下町と陸続きとなりました。以前、臼杵を統治した大友氏は、凝灰岩から出てきた天然の崖を城作りにうまく利用しましたが、江戸時代の臼杵を統治した稲葉氏は、、凝灰岩からできた丘陵地や低平地をうまく町作りに生かしました。丘の斜面には、武家屋敷が建ち並び、低平地には町人を重点的に居住させます。そして町人の町と武家屋敷の境には、寺院を配置します。城を中心に武家屋敷、町人の町と同心円のように広がっていくのが城下町の典型ですが、臼杵は丘陵地の尾根伝いに武家屋敷が展開しています。これは戦となった時、丘陵地が防衛線の役割を担えるよう武士の住居を配置したのではないかと思われます。そして町人は商工業の活動がしやすい低平地を拠点とすることで経済の振興をはかったのではないでしょうか。

旧真光寺の前から見た二王座歴史の道

懐かしくて、素朴な雰囲気の臼杵の古い町並み

臼杵の古い町並みで武家屋敷が立ち並ぶ区域にある二王座歴史の道は、石畳と高い石垣が白漆喰壁に調和した落ち着いた街並みです。特に旧真光寺の前は凝灰岩を削り取った「切り通し」と呼ばれる場所で、ここから坂道を眺める景色は、なかなかの味わいがあります。二王座歴史の道から臼杵川方面へいくと龍源寺の三重塔があります。古い町並みの中でも際立って高い三重塔は太子塔とも呼ばれ、聖徳太子を祀っています。町人の居住地であった町八町は、石畳に白漆喰が調和した美しい町並みです。令和の世でも、お菓子や、着物、臼杵の特産品などを販売する店が立ち並んでいます。どこか懐かしくて、素朴な雰囲気を漂わせる町並みは、訪れる人をやさしい気持ちにさせます。江戸時代に米蔵や重臣の屋敷があった場所には、明治維新後東京に移り住んだ稲葉氏が、臼杵帰郷時の住居として明治35年に建てられた稲葉家下屋敷があります。

凝灰岩をふんだんに使った臼杵の古い町並み

臼杵の古い町並みは、江戸時代から昭和初期の名残を色濃く残す美しい場所ですが、実際に町並みを歩いているとそれ以上に視覚に訴えてくるものがあります。それは何かと言えば、この地方に豊富に存在する凝灰岩です。凝灰岩の断崖や切り通し、そして凝灰岩をふんだんに使った石垣や石畳。暗褐色の凝灰岩であるために、白漆喰の塀に映え、また奥深さを感じます。雨の日には石垣や石畳がしっとりと湿気を帯びて、生き物のように大気と呼吸しているようにも感じます。みなさんも大友宗麟の時代から歴史を積み重ねた臼杵の町を訪れてみて、他の城下町にはない唯一無二の素晴らしさを感じてみてはいかがでしょうか。

雨上がりの二王座歴史の道

 

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