嬉野の大茶樹を見ながら、嬉野茶を味わう

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佐賀県


嬉野茶発祥の地に君臨する嬉野の大茶樹

佐賀県嬉野市にある嬉野の大茶樹は、嬉野茶発祥の地・不動山皿屋谷の茶畑の中にあるシンボル的な存在の茶樹です。樹齢340年を越え、枝張り約80㎡、樹高4.6mもあるため、周囲の茶樹と比べても圧倒的な存在感があります。親玉のように茶畑に君臨しているこの大茶樹は、数百年培ってきた嬉野茶の歴史を今に伝える存在でもあります。今回は、大茶樹とその歴史を紐解き、味わい深い釜炒り茶の伝統を持つ嬉野茶の魅力に触れていってみましょう。

4月、茶畑にたくさんの新芽が出る

中国人が嬉野にお茶を持ち込む

霧深い山々に囲まれた盆地で、澄んだ空気と清らかな水に恵まれた嬉野。お茶の栽培に適したこの地で、お茶を最初に栽培したのは中国人でした。日明貿易が盛んだった室町時代、平戸に来航した紅令民(こうれいみん)と呼ばれる中国人の陶工が、嬉野の不動山皿屋谷に移住し、陶器を焼くかたわらにお茶を栽培したことが始まりでした。彼らは南京釜を持ち込み、当時の中国の最新製茶法であった釜炒り製茶を嬉野に伝えました。お茶の栽培に適した嬉野の地で、お茶を栽培し、自分たちの作った陶器でお茶を飲む。自分で炒って、忍耐と根気のいる手作業を経て深い味わいのお茶が完成する。嬉野に移住した紅令民たちは、現代の言葉でいうスローライフを実践していたのではないでしょうか。

緑濃い不動山皿屋谷

嬉野茶の茶祖、吉村新兵衛

江戸時代初期になると、鍋島藩士の吉村新兵衛が西口の警備を命じられ、嬉野の不動山皿屋谷に移住します。吉村新兵衛は、森林警備のかたわらに山谷を開墾し、大規模な茶畑を開発します。そして、中国人が伝えた釜炒り製茶の改良を試み、製茶技術の向上をはかりました。吉村新兵衛が茶樹栽培・製茶に尽力した結果、嬉野茶は地場産業としての地位を獲得します。吉村新兵衛は、佐賀藩主鍋島勝茂公の逝去で切腹し殉死を遂げますが、後の人々から「嬉野茶の茶祖」として遺徳が讃えられました。

茶祖吉村新兵衛の碑

茶畑開発の頃に植えられた大茶樹

お茶の木としては珍しい大木である嬉野の大茶樹は、吉村新兵衛が不動山皿屋谷に茶畑を開発した頃の慶安年間(1648〜1651年)に植えられたものとされています。茶祖吉村新兵衛の時代から、茶畑を見てきた嬉野茶の生き証人のような存在です。元来は1本の木でしたが、現在の樹冠は複数の株によって構成されています。嬉野茶の元祖にふさわしい風格と歴史を感じさせる枝振りに圧倒される嬉野の大茶樹は、大正15年に国の天然記念物に指定されました。

日本全国へ広がる嬉野茶

江戸時代初期に嬉野の一大産業となった「嬉野茶」の生産は、お茶を飲む習慣が当時の庶民にも広まったこともあり、拡大の一途をたどります。江戸時代の嬉野は、長崎街道の宿場町として整備され、嬉野温泉の湯治客で賑わいました。嬉野に立ち寄った旅人や宿泊客に振る舞われたのが嬉野茶でした。嬉野に宿泊した司馬江漢や吉田松陰などの数々の文人、ドイツ人医師のケンペルやシーボルトらが、当時の嬉野茶について記したものが残っています。

谷に沿ってのびる茶畑

諸外国に輸出される嬉野茶

嬉野茶の評判は日本国内にとどまらず諸外国にも広まり、江戸時代中期には長崎の出島からオランダへの輸出が始まります。幕末から明治にかけては、長崎の女商人・大浦慶らの活躍もあって、大量の嬉野茶が輸出されました。重工業が発達していなかった幕末・明治初期の日本は、外国との貿易での輸出は、手工業品に頼らざるを得ませんでした。そのため、諸外国から評判を受けていた嬉野茶は、日本の輸出品として大いに貢献しました。

茶壷

戦後は、蒸し製法が主力になる

嬉野茶は、室町時代に中国人が持ち込んだ釜炒り製法を長年続けてきました。しかし戦後の高度経済成長、人口の増加などの要因で、日本国内におけるお茶の需要が飛躍的に伸びると、手間隙のかかる釜炒り製法に限界が訪れます。嬉野茶は、大量のお茶が生産できる蒸し製法へと変わっていき、現在では生産性の高い製茶工場での生産が、主力となりました。収穫した茶葉を蒸気でむし、機械でもんでお茶の成分が出やすくしたのち、乾燥させる工程で、お茶の大量生産を実現しています。蒸し製法にすることで、口当りの良い渋味が生まれ、全国茶品評会で常にトップクラスに入賞するなど、高品質茶として多くの人々に愛用されるようになりました。

嬉野式傾斜釜

釜炒り茶の魅力

蒸し製法が嬉野茶の主力となったとはいえ、釜炒り茶には独特の味わいがあり、生産者を中心に、釜炒り製法の嬉野茶の伝統を守る努力がされています。釜炒り茶は、摘んで間もない新鮮な茶葉を、釜炒りして作られます。そのため「釜香」といわれる香ばしさが、鼻全体をつつみます。味は喉ごしが良く、すっきりとしていますが、後に甘味が残ります。釜炒り茶は、釜には入る量しか一回に作れませんし、手揉み作業も発生するので大量生産には適していません。しかし、計器類や機械をいっさい用いず、経験を頼りに丁寧に作られた釜炒り茶は、深みが違います。既製品の洪水状態にある現代において、少量を手間隙かけて作り出す釜炒り茶の価値は十分にあるのではないでしょうか。

嬉野茶の発展と共に歩んできた大茶樹

嬉野の町がある嬉野温泉街から、車で10分ほど走ったところにある嬉野茶発祥の地不動山皿屋谷。樹齢350年を越える嬉野の大茶樹は、茶畑と木々の緑に囲まれた標高210mの山裾で、嬉野茶の発展とともに歩んできました。中国の製茶法を取り入れながら、改良を加えてきた長い伝統のある釜炒り茶、戦後の大量消費社会に対応しながら高品質なお茶を生み出してきた蒸し製法のお茶、そして最近では世界トップクラスの味を誇る紅茶の生産も始めた嬉野茶。このような豊かな味わいのお茶を生み出す嬉野の地には、良いお茶を作る条件である気温の高低差、澄んだ空気があります。また春の新芽が出る季節になると朝に霧が発生し、この水分がお茶に良い影響を与えます。みなさんも、豊かな自然あふれる嬉野の大茶樹を訪れてみて、伝統ある嬉野茶を味わってみてはいかがでしょうか。

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