水運の利と満島山の要害に守られた近代城郭、周囲の自然の景観と調和し唐津市のランドマークとなっている唐津城

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佐賀県

 

天然の要害と水運の利のある場所に築城にされた風光明媚な景観の唐津城

佐賀県唐津市にある唐津城は、松浦川唐津湾に注ぐ河口付近の海抜42mある満島山に築かれた城です。満島山は、三方を海と川に囲まれた半島状の天然の要害と水運に恵まれた場所にそびえる山です。江戸時代初期に軍事と交通の利を求めて築城された唐津城は現在、風光明媚な周囲の自然と調和した唐津のランドマーク的な存在となっています。唐津藩の初代藩主の寺沢広高が、1608年に築城したと伝えられる唐津城は、肥前名護屋城の廃材を転用したとされるいわれや、天守閣の建築が確認される資料がなく、天守台までしか造られなかったのではないかという説があるなど謎に包まれた城でもあります。近年の発掘調査によって、その謎が少しずつ解け、その全貌が明らかになりつつあります。今回は唐津城とその城下町として唐津の町が発展していった歴史に触れ、その魅力に迫っていきます。

唐津市街地と唐津城の防御の役割を担った河川

現在の唐津の町の基礎をつくった寺沢広高

唐津城を築城した寺沢広高は、尾張の出身父とともに親子2代にわたって豊臣秀吉に仕えた武将です。秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役では、名護屋城の普請や兵力輸送や兵糧の補給などの任務を遂行しました。朝鮮での苦しい戦いを強いられた諸大名からは不満の対象となりましたが、秀吉からはその働きぶりを高く評価され、唐津の領地を分け与えられました。唐津の地は、文禄・慶長の役における失態を理由に、秀吉によって改易させられた松浦党の名門波多氏の領地だった土地であり、古くから交易が盛んな地域でした。領国を持ち、大名となった寺沢広高は、唐津城の築城と城下町唐津の発展に心血を注ぎます。そして広高の時代に進められた城の築城や城下の町割り、松浦川の大改修工事や黒松の植林などは、現在の唐津の町を形成する基礎となっています。

穴太衆の石工技術を用いたとされる石垣

寺沢広高がとりかかった唐津城築城という大プロジェクト

豊臣秀吉の死後の寺沢広高は、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いでは徳川方に参陣します。その戦功で天草4万石を加増され、12万石の大名になった寺沢氏は、唐津城築城という大プロジェクトにとりかかりました。唐津城は、松浦川と神田川の大改修を行い、広い河口にすることで、城の堅固さの増強と水運の利便性の向上をはかりました。また陸続きとなる部分にも堀割をつくり、敵の侵入を防ぐ工夫を施しています。そして天下人秀吉の巨大城である肥前名護屋城の建材を使ったり、薩摩や肥後をはじめとする九州各藩の協力を得たり、穴太衆の石工技術を用いたりしたとされていますから、たいそう立派な城だったのではないかと思われます。

唐津城北側の松原越しに見る海

唐津城で進められている学術調査

江戸時代の唐津城は、現在のJR唐津駅の方向へ二ノ丸と三ノ丸が広がっていました。本丸に隣接している現在の早稲田佐賀中学校・高等学校には、藩主の住居と藩庁の置かれていた二ノ丸があり、学校のグランド部分には藩校や蔵のほか、馬場や厩がありました。また平成20年度に唐津市が着手した石垣調査で、櫓台、堀跡、旧石垣などの遺構が確認され、さらには豊臣政権によって全国に広まった金箔瓦が出土するなど、肥前名護屋城に関連するものも発見しました。これは唐津城が築城される前に、豊臣政権の何らかの施設があった可能性もあり、今後の学術調査の進展に期待がかかります。

唐津城東側に伸びる虹の松原と松浦川

お家断絶となった寺沢氏

寺沢広高は、唐津城築城に並行して町づくりにも力を入れました。寺沢広高は土木事業に長けており、町割りや松浦川の改修、日本三大松原である虹の松原などは、この時代に造られたものであり、現在においても、貴重な財産として残っています。こうして唐津は、江戸の大量物流時代に対応した近世城郭都市に生まれ変わり、発展を遂げます。唐津の町の発展に大きく寄与した寺沢氏でしたが、寺沢広高の死後、島原・天草の乱が起こります。寺沢氏の天草領で一揆が起きたため2代藩主寺沢堅高は、その責を負わされます。江戸城への出仕も許されず、面目を失った寺沢堅高は江戸の海禅寺で自らの命を絶ちました。堅高には嗣子がおらず断絶となり、唐津は一時天領となりました。

昭和41年に造られた唐津城の模擬天守

寺沢氏断絶後の唐津城

寺沢氏が断絶し、一時天領となった後は、明治維新までに、大久保、松平、土井、水野、小笠原が入れ替わるように唐津の地を治めました。この5つの家は譜代大名で、長崎警護を担当していた佐賀・福岡両藩の目付役という任務がありました。佐賀と福岡に近い唐津の地は、黒田と鍋島という有力外様大名の監視に好都合な場所でもありました。寺沢氏の時代はわずか2代で終わってしまいましたが、寺沢氏の築いた城やインフラは現在でも残っており、唐津の町が発展していく基礎をつくった功績は計り知れないものがあります。明治の廃藩置県で武士の世の中が終わると、唐津城跡は舞鶴公園として整備されました。昭和41年には文化観光施設として、天守台の上に天守閣が建てられました。唐津城には天守閣に関する資料がなかったため、慶長様式の天守を模擬天守として建築しました。

 

自然の素晴らしい景観と歴史を感じる唐津城

現在唐津市の観光名所となっている天守閣へは、エレベーターを利用するほかに、231段の石段を登るルートがあります。本丸の入口付近には樹齢100年を超す天然記念物の藤棚があり、城を訪れた人々を迎えるように生えています。春の花が咲く頃になると藤の花の甘い香りが漂い、花房越しに天守閣を見ることができます。元々あった天守台の上に建設された天守閣は、まわりの景観とうまく調和し、今や唐津市のシンボルとなっています。天守閣の5階は展望台となっていて、江戸時代に近代的な町に整備された唐津の町や美しい海、松原などが見える抜群のビュースポットとなっています。満島山の山頂にある唐津城本丸を要に東に虹の松原、西に西の浜の松原が広がっており、鶴が翼を広げたように見えることから、別名舞鶴城とも呼ばれています。唐津城を築城した寺沢氏が比較的短い期間でお家断絶となってしまいました。しかし、唐津には寺沢氏が関わった旧跡が多くあり、現在でもその足跡を認識することができます。皆さんも唐津城を訪れてみて、自然の景観の素晴らしさとその歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

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