多久が文教の地として再出発した時代の孔子廟、怨念を乗り越えて人心を得ようとした強い想いを感じる多久聖廟

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佐賀県

文教の地である多久の象徴、多久聖廟

佐賀県多久市にある多久聖廟は、儒学の祖で学問の神様ともいえる孔子を祀った建物です。いわゆる孔子廟といわれるもので、現存するものとしては、栃木県の足利学校、岡山県の閑谷学校の孔子廟とともに日本で最も古いものの一つです。多久聖廟は、江戸時代に多久を領有していた多久氏によって建てられました。多久氏は佐賀鍋島藩の家老級の家柄でしたが、鍋島氏の大名の座を追われた龍造寺氏の傍流にあたり、その立ち位置は微妙でした。主君の鍋島氏から領地召し抱えなどの圧力を受けた多久氏は財政難に陥りますが、学問に力を注ぎ、人づくりに活路を見いだします。多久聖廟は多久を文教の地にするために、その象徴となる存在でした。今回は多久氏の歴史に触れながら、多久の新しい歴史を生み出した多久聖廟について迫っていきます。

仰高門と孔子廟

龍造寺隆信の実弟の長信が多久を領有

江戸時代に多久を領有した多久氏は、後多久氏と呼ばれ、鎌倉時代から戦国時代にかけて多久を領有し、多久の地名の由来となった前多久氏とは血縁関係がありません。ちなみに前多久氏は龍造寺氏との攻防に敗れ、1544年に滅亡しています。その後1570年には、龍造寺隆信の実弟である龍造寺長信が多久を支配しました。こうして龍造寺長信は、本家の龍造寺氏を支えることになります。しかしその当主の龍造寺隆信が1584年の沖田畷の戦いで落命すると、家臣の鍋島氏が主君の龍造寺氏をしのぐ力を持つようになります。

中国の曲阜市から多久市に贈られた孔子像

龍造寺氏の傍流が多久姓を名乗る

やがて鍋島氏が龍造寺に変わって正式な当主になると、龍造寺長信の嫡男である安順は鍋島氏に遠慮して多久姓を名乗りました。後多久氏の始まりです。多久順安は、朝鮮出兵の際には李三平を連れて帰り、有田焼などに代表される佐賀藩内の窯業を勃興させるなど、藩政にも深く関わりました。龍造寺氏の傍流にあたる多久氏は佐賀藩でも格の高い家柄ですが、当主の座に着いた鍋島氏からの風当たりは強く、鍋島氏から2度の上地(領地召し抱え)を受けています。そのため領地が縮小し、厳しい財政難に陥りました。

多久聖廟の参道

学問の振興で人心掌握をはかった多久茂文

多久聖廟を創建した多久茂文は、佐賀鍋島藩2代藩主の三男として生まれ、その後に3代領主多久茂矩の養子となり、1686年に17歳の若さで多久氏4代領主となります。多久茂文は若い頃より学問を好み、儒学者の武富咸亮や佐賀藩の儒臣である実松元林に学びました。そして当主となった多久茂文は、深刻な財政難に陥り、かつ鍋島氏からの上地を受けたりして、荒んでいる多久の家臣や領民の人心を得るために、学問の振興をはかります。1692年に佐賀藩主鍋島綱茂に学校と孔子像を安置する聖廟の建設を願いました。そして鍋島綱茂から許可が出ると、多久茂文は学問所と孔子廟の建設へ向けて動き出します。

平成の時代に当時の面影を残しつつ現代風に再建された東原庠舎

多久茂文の願いが伝わってくる多久聖廟

多久茂文は、佐賀から儒学者である川浪自安を招き、多久領内の教育の充実をはかっていきます。1699年には学舎としての東原庠舎が完成します。東原庠舎は、武家の子弟教育を第一にあげていますが、武士以外の者にも入学を許可しました。身分制度のあった江戸時代前期において画期的であり、文教地区として多久地域の底上げが果たされました。そして1708年に多久聖廟が完成します。孔子像と顔子・曽子・子思子・孟子の像を安置している聖廟は、禅宗様仏堂形式と呼ばれる我が国の建築様式ですが、麒麟や鳳凰、龍、草木魚といった中国風彫刻が施されています。これらの聖獣は、政治や教育が行き届き、平和で豊かな社会が訪れるといわれている縁起のよい動物です。多久聖廟を創建した多久茂文の願いが現在を生きている我々にも伝わってきます。

約310年続いている多久聖廟の儀式「釈菜」

多久聖廟で行われる重要な儀式として「釈菜」があります。雅楽の音が響き渡る厳かな雰囲気の中、孔子とその弟子「四配」の像に栗や甘酒などのお供え物をささげます。多久氏の当主である多久茂文自らが祭官となり、執り行っていた「釈菜」は多久聖廟の創建以来、約310年間続けられ、佐賀県重要無形民俗文化財に指定されています。現在は4月18日と10月第4日曜日の年2回行われ、供え物を像の前に置く「献官」を多久市長、供え物を運ぶ「祭官」を教育関係者が務めます。孔子廟の内部は「釈菜」などの特別な時しか公開されておらず、貴重な文化財を見ることができます。儀式の後には孔子祭があります。多久市内の中高生による「釈菜の舞」や中国にちなんだ獅子舞や腰鼓が披露され、多くの見物客を魅了します。

怨念を乗り越えようとした想いが感じられる多久聖廟

孔子廟は、中国の故事に習って北に山を負う場所に創建され、南に仰高門、門の前には池が作られました。多久茂文はその著者「文廟記」のなかに「人が廟社を敬う心を持ち、心に忘れず事に失わず、少しも敬から離れなければ、すべての善がここに集まる。そして賢人となり聖人となり、人の道が達成される。」と記しています。家臣の鍋島氏から当主の座を奪われた龍造寺氏の流れを組み、さらにその鍋島氏から領地召し抱えなどの搾取を受けた多久氏。多久聖廟には、多久氏の抱えている怨念を乗り越えようとする多久茂文の強い気持ちが感じられます。財政難という困難な状況でありながらも、多久聖廟は創建されました。その後、多久からは鶴田斗南や高取伊好などの多くの人材が育ち、多久聖廟を象徴とする文教の地として発展しました。多久聖廟を歩いていると、多久聖廟にかける人々の想いが随所から感じとることができて、胸が熱くなりました。皆さんも多久聖廟を訪れてみて、その素晴らしさを感じ取ってみてはいかがでしょうか。

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