佐賀に君臨した戦国時代の雄である龍造寺氏と江戸時代の大名家鍋島氏の歴代当主を葬る佐賀鍋島藩の菩提寺、厳かな伽藍や涅槃図などの貴重な文化財を有し佐賀の郷土史の伝統に春に咲く梅の花が彩りを添える高伝寺

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佐賀市

 

江戸時代に隆盛した鍋島氏の菩提寺

佐賀県佐賀市にある高伝寺は、1552年に戦国大名であった龍造寺氏の家臣の鍋島清房が創建した寺です。その後鍋島氏が龍造寺氏の実権を握り、江戸時代に佐賀鍋島藩が成立すると、初代藩主の鍋島勝茂は伽藍・領地を寄進し、高伝寺は鍋島氏の菩提寺となります。また曹洞宗の寺院である高伝寺は、江戸時代の鍋島藩内の曹洞宗の中心的役割を担いました。江戸時代に隆盛した高伝寺は、龍造寺、鍋島両家の墓所や貴重な文化財などがある歴史あるお寺として現在に至っています。また高伝寺は梅の名所としても名高く、紅梅、白梅の開花時期にはたくさんの見物客で賑わいます。今回は、鍋島氏の菩提寺として、佐賀鍋島藩と深い関わりのある高伝寺について取り上げていきます。

高伝寺の山門

世俗と隔絶した厳かな高伝寺

佐賀市の中心部から西南約3kmのところにある高伝寺の周辺は近年開発が進み、住宅街が形成されています。そんな人々の日常生活が垣間見える住宅街から高伝寺の山門をくぐると、目に巨大な本堂が飛び込み、世俗と隔絶した厳かな雰囲気になります。1万余坪ある高伝寺の寺域は、長い年月を経た建造物や古木などがあり、佐賀鍋島藩の往事の姿を彷彿とさせます。平安時代に天台宗の慈覚大師の作と伝承されている高伝寺の本尊である薬師如来は、一般公開されておらず、須弥壇の幕後に安置されています。また毎年期間限定で一般公開され、日本最大級の大きさを持つ涅槃図は、3代藩主鍋島綱茂の発願により制作されました。長い年月を経ながら、高伝寺で使用されてきた涅槃図は、損傷が多くなったため九州博物館で2年の歳月をかけて修復されます。高伝寺ではスペースの制約があるため、涅槃図を折り曲げて一部公開しかできませんが、修復後初の一般公開は、スペースが十分にある九州国立博物館の一階エントランスで、涅槃図を吊り下げて全体公開しました。

高伝寺の墓所と梅

明治時代に整備された広大な龍造寺・鍋島両家の墓所

明治4年には、鍋島家当主で佐賀鍋島藩の最後の藩主であった鍋島直大が、各地に散在していた龍造寺氏並びに鍋島氏の墓を改葬して高伝寺に集め、新たに整備しました。戦国時代に鍋島氏の主君であった龍造寺氏は、龍造寺隆信の時代に、肥前をはじめ筑前、筑後、肥後や豊前の一部を勢力下に置き、「九州三強」の一人と称せられる戦国大名でした。鍋島氏も今山の戦いなどで武勲を挙げ、龍造寺氏の重臣としての地位を不動のものとします。しかし沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると龍造寺家への求心力が弱まり、鍋島氏は龍造寺家の実権を握ることでその勢力回復に努めました。そして豊臣秀吉から所領が安堵されると、鍋島氏は名実ともに佐賀の支配者となります。江戸時代の高伝寺はそんな鍋島氏を菩提寺として支えるバックボーンのようなお寺でした。そこに鍋島氏が伝統を継承した龍造寺氏の墓を加えることで、戦国・江戸時代に佐賀に君臨した龍造寺・鍋島両家のモニュメント的な役割を明治時代以降の高伝寺は担うようになります。

 

佐賀に君臨した龍造寺・鍋島氏の伝統が残る高伝寺

龍造寺・鍋島両家の当主が眠る広大な高伝寺の墓所の入り口には鳥居があり、そこから向かって東側が龍造寺、西側が鍋島家の墓所になります。広い墓所には歴代の当主やその夫人の大きなお墓や石灯籠が並んでいます。龍造寺家の墓塔10基、鍋島家の墓塔16基が独特の雰囲気と調和の美を生み出している高伝寺の墓所。一種の墓地公園のように整備された墓所は、近世の墓塔の変遷や佐賀の近代史を研究する上でも資料的価値が高いものがあります。また幕末に活躍した副島種臣の墓や、大隈重信が子供の頃木登りしたという八太郎槙があり、高伝寺の境内には龍造寺、鍋島そして幕末の志士という佐賀の郷土史における伝統を見ることができます。

梅と竹林と高伝寺の墓所

高伝寺の含蓄ある梅

高伝寺は梅の名所でもあり、梅の花が咲く季節になると多くの見物客で賑わいます。例年2月中旬から3月上旬にかけて境内の梅が見頃になり、お堂や墓所が梅の花で華やかになります。高伝寺には樹齢400年ともいわれる霊徳寿梅があり、樹高約4.5m、幹回り約1.8m、枝張り約4.2mの広大な墓所にその存在感を示す紅梅は、葬られている龍造寺・鍋島両家の先祖の遺徳を讃えているかのようです。白梅や紅梅など約700本もの梅の木が咲き誇る高伝寺。樹高はさほど高くないものの、臥龍しているものも何本かあって含蓄のある梅が多いのも特徴的です。歴史の重みを感じながら境内を歩いていると、含蓄のある梅をより味わい深く感じるようになります。

 

訪れて感じる高伝寺の魅力

佐賀平野の特徴的なクリークが張り巡らされた場所にある高伝寺は、周辺が近代的な住宅街に整備された現在でも、川や堀が縦横に走っています。高伝寺を訪れた際は、周辺の川や堀を散策してみて、佐賀のクリークを味わってみるのも良いでしょう。そして高伝寺の山門や本堂、開山堂などの伽藍や広大な墓所を巡れば、佐賀の今まで見えなかった魅力を発見出来るかもしれません。高伝寺が創建された当初は桃の名所だったそうです。それがいつしか梅にとって変わり、今では寺と調和した含蓄のある梅となって人々を楽しませています。長い歴史を経て変遷しながら伝統を守り続けてきた高伝寺。皆さんも高伝寺を訪れてみて、高伝寺の魅力を発見してみてはいかがでしょうか。

池と高伝寺の観音堂

コメント

  1. 古川善春 より:

    良く調べてあるよ、俺は18年居たけど余り興味無かったよ、大隈重信は確か材木町にあり大したことなかたつたよ

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