白石町の森に覆われた山の中腹にある懐深い神社、多様な文化を守ってきた祭神が鎮座する稲佐神社

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佐賀県

積み重ねてきた歴史を感じる稲佐神社

佐賀県白石町の緑深き杵島山の中腹にある稲佐神社は、樹齢300〜600年以上もある巨木や自然石で出来た趣深い参道が残っている広大な敷地を持った神社です。稲佐神社は、年代が定かではないほど創建が古く、山の麓から伸びる参道を歩くと、積み重ねてきた歴史を感じることができます。稲佐神社の社伝では、素戔嗚尊の子でこの神社の祭神である五十猛命が我が国に最初に降り立ったのが稲佐神社の鎮座する杵島山山麓であったそうです。また、仏教伝来の百済の聖明王と子である阿佐太子を祭神としており、稲佐神社は、杵島山一帯に造られた寺院の鎮守として神仏習合を具現化しました。今回は神話の時代からの伝承があり、仏教興隆の役割を果たした稲佐神社について触れていきます。

石造肥前鳥居

杵島山という島に創建された稲佐神社

稲佐神社が鎮座する白石町は、佐賀県を代表する穀倉地帯である白石平野を有し、農産物の生産が盛んな町です。広大な耕作地を生かした米などの穀物類の生産に加え、有明海の養分を含んだ粘土質の土壌で育った白石れんこんや、佐賀県産の生産量の7割近くを占める玉ねぎが特産となっています。杵島山の麓に広がり、農業に適した土壌の白石平野はそのほとんどが有明海の干拓によって開発された土地です。そのため未開の土地が多かった古代は、現在のような広大な穀倉地帯となるような白石平野はなく、杵島山は島であったとされています。

大陸との交流を想像させる古代の稲佐神社

有明海に面していた杵島山は、水運をつかった人的・物的交流が盛んで、稲佐神社の主宰神である五十猛命の伝承につながったのではないでしょうか。五十猛命は、持っていた樹木の種を朝鮮半島に降り立った際にはまかず、杵島山に降り立った際に山中にまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれるようになったという伝承があります。また、百済の聖明王の子阿佐太子が、この地に来たという言い伝えや、杵島山一帯に百済から伝来した仏教の寺院の史跡があることなど、稲佐神社周辺には伝承や史跡が残っています。このような事柄を総合すると、古代の杵島山は、朝鮮半島との交流の拠点となっていたのではないかという説が考えられます。朝鮮半島を経由して伝来した大陸の文化や物を、有明海の水運で当時島であった杵島山まで運び、先進的な大陸文化が花開いたという推察も成り立つのではないでしょうか。

稲佐神社の御神木の大楠

木の神「五十猛命」を祭神とする稲佐神社

稲佐神社の主祭神である五十猛命は、木の神、植林の神であり建築の神でもあります。五十猛命が木の種を植え、繁茂したという言い伝えのある杵島山。稲佐神社には、樹齢 600年以上の巨木が数本、樹齢300年以上の木が12本もあり、2本の御神木が佐賀県の天然記念物になっています。その他にも夫婦杉や縁結びの木「なぎの木」などの含蓄ある銘木があり、五十猛命にまつわる日本神話や稲佐神社の社伝を具現化したような風景が展開します。稲佐神社周辺の広大な鎮守の森は、現在、稲佐の森として保護が進み、花粉が少ない杉を植樹するなどの森づくりを進めています。

仁王像

百済の聖明王を祭神とし、仏教の守護神となった稲佐神社

仏教が伝来した百済の聖明王を配祀した稲佐神社は、仏教の守護神として仏教興隆を支える役割を担いました。平安時代初期の807年に弘法大師が肥前の地に来たとされる時に、稲佐十六坊の創建をしたと伝えられています。弘法大師は、平城天皇の勅許を蒙り、稲佐神社一帯の山を総称して稲佐泰平寺と名付けたとされています。山の麓から始まる稲佐神社の石段参道の両側にはかつて稲佐十六坊と呼ばれる16の真言宗寺院がありました。江戸中期の火災で焼失した十六坊を僧の恵眼比丘が復興したという記録が残っており、明治の廃仏毀釈まで神仏習合の聖域でした。現在は、玉泉坊・観音院・座主坊の3ヶ寺が残っており、他は廃寺跡となっていますが、仁王像や地蔵菩薩像など、真言密教の道場として仏教文化が興隆した頃を偲ばれるものが点在しています。

稲佐神社 楼門

白石氏、鍋島氏の保護を受ける稲佐神社

鎌倉時代には、この地域の地頭に白石氏が任じられます。当主の白石通益は、稲佐神社を尊崇し、その再興を源氏の棟梁であった源頼朝に願い出ます。そして1195年に再建の下知が為され、社領・寺領の寄進と新しい社が造営されました。神輿の神幸や獅子舞や浮立などが奉納される秋の例大祭が毎年、稲佐神社では行われるのですが、そこで行われる流鏑馬は、白石氏が再興した時代から伝わるものです。流鏑馬が行われる馬場通しは全長216mにも及び、稲佐神社の敷地を貫くように真っ直ぐに伸びています。笠・装束の出で立ちに弓・鞭を持った射手が馬に乗り、3ヶ所に設けられた的を射貫きます。江戸時代は、この地を領有した鍋島氏の手厚い保護を受け、発展します。現在の楼門、及び県内最古の鼓鐘楼は、江戸時代中期の1721年に造営されたものです。

厳かさとおおらかさを感じる稲佐神社

山の麓から始まる稲佐神社の参道は、登山道のように石がごろごろと並べられた石段が、流鏑馬の行われる馬場通しまで続きます。参道には、安土桃山時代の1585年に建立された古い鳥居や、仁王が蹴飛ばして転がってきたといわれる「仁王さんの足跡石」があり、かつて神仏習合が興隆した稲佐十六坊のあたりを歩くと、静けさの中にも神と仏の聖域であった荘厳な空気を感じます。厳かな稲佐神社の楼門をくぐると大正11年に改築された大きくて素晴らしい彫刻が施された本殿があります。数々の巨木のある緑深き稲佐の森に囲まれた稲佐神社。由緒正しき厳かさが漂うなかでも、天神様やお稲荷様などの八百万の神々が鎮座し、数多くの仏様に見守られた世界がそこにはあります。昔の神仏習合の時代のおおらかさと懐の深さを感じる神社です。皆さんも稲佐神社を訪れてみて神仏の世界を確かめてみてはいかがでしょうか。

稲佐十六坊の一つ、玉泉坊

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