人々の自然への関与によって誕生した樫原湿原
佐賀県唐津市にある樫原湿原は、標高600mの唐津市七山の山間地にある面積約120haの美しい湿原地帯です。豊富な湧き水が流れる樫原湿原の約8haの特別地区には、約60種類の湿原植物、昆虫、野鳥などが生息しており、環境省の「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」に指定されています。山間地の冷涼な心地よい風と豊かな自然が、訪れる人を和ませる樫原湿原。この素晴らしい湿原が誕生したのは意外にも人間が本格的にこの地に足を踏み入れてからになります。室町時代に本格的な開墾が始まると、このあたりにあった広葉樹林地帯は、湿原地帯へと変貌していきました。樫原湿原は自然の力と人々の自然への関与とがうまく釣り合って、このような豊かな生態系になったのです。今回は樫原湿原の美しい自然に触れながら、人が樫原湿原とどのように関わってきたのかを掘り下げていきます。
四季を通じて様々な表情を見せる樫原湿原
樫原湿原は有名な湿原が少ない九州においては、比較的規模の大きい湿原です。「九州の尾瀬」とも呼ばれ、四季を通じて様々な表情を見せてくれる景勝地としても知られています。
生命が動き出す春と生き物が躍動する夏
春には、氷河期の残存植物とされるミツガシワ、周辺の森林ではヤマザクラが咲き、ニホンヒキガエルのおたまじゃくしが泳ぎ始めます。平野部に比べるとやや遅い春の訪れですが、多様な生命が動き始めたことを、感じることが樫原湿原ではできます。6月にはトキ草、7月にはヒツジ草、ジュンサイ、8月にはサギ草が美しい花をつけ、梅雨の初めの頃からトンボが飛び回り、カエルやトビハゼの声が聞こえます。色とりどりの花が咲き、生き物が躍動する夏の樫原湿原は、見どころが多くあります。
爽やかな風が吹く秋と、湿原一帯が静寂になる冬
秋は果実が実り、樫原湿原が秋色に色付く季節です。タヌキモやミミカキグサ類などの食虫植物やコイヌノハナヒゲの群落の花が咲き、ヨシキリの鳴き声が爽やかな風とともに、秋を感じさせてくれます。冬になると、動植物の活発な活動が停止し、湿原一帯は静寂になります。そして雪が降り積もると、白一色の世界が展開します。
早春3月に行われる野焼き
春の訪れを感じる3月には、枯れ草を焼き払う野焼きが行われます。湿地内の遊歩道や外側の道路から火を放つと、バチバチと音を立てて燃え広がり、一帯を黒く染めます。周囲から樹木が入り湿原が森林になるのを防ぐ目的で行われており、周りの人は炎の行方を見守り、意図しない方向に燃え広がりそうになると、水で濡らした生の杉の枝で叩いて消します。この野焼きは集落の年中行事であり続けていくことで、生物の宝庫とも言える樫原湿原の自然環境を守っています。
地表の隆起と人々の営みによって、湿原の条件が整う
堅原湿原のあった場所はもともと平原でしたが、地質時代の第三紀(約6500万年前〜170万年前)時代末期頃に隆起し、丘陵地帯となりました。この隆起によって現在の堅原湿原は、盆地状になり、水を通しにくい粘土層が広がったこともあって、流入水や湧き水が集中する湿潤地域になっています。丘陵地になった後の堅原湿原周辺は、常緑広葉樹林が広がる地域でしたが、室町時代以降に人間の手による本格的な開発が始まりました。堅原湿原周辺は、広葉樹林の木の伐採や、稲作や牧畜が始まり、人間が定住します。このような人々の営みによって樹木に覆われる土地が減少し、湿生草原が出現していきました。本来ならば草原から樹林へ自然遷移するところですが、人為的な土地利用が続いたことで、二次的自然環境の湿原を維持し、現在の樫原湿原に至っています。
戦後の経済成長期に曲がり角を向かえる樫原湿原
農業や採草、森林の伐採などの人為的な活動により誕生した樫原湿原。多様性のある生き物の棲みかを提供した樫原湿原は、貴重な湿生植物や昆虫などの楽園となりました。こうして本格的な開墾が始まった室町時代からの歴史のある樫原湿原ですが、戦後の高度経済成長の時代になると大きな曲がり角を迎えます。農林業が衰退していく中で、樫原湿原周辺の人々の自然との関わりが減っていき、それに伴って湿原がしだいに劣化していったのです。ヨシやマコモなどの特定植物の繁茂、周辺森林の成長に伴う弊害、周辺流域からの土砂の流入などにより湿性植生の劣化が進行しました。貴重な生き物の宝庫が失われる曲がり角に、樫原湿原は立たされました。こうした状況をふまえて佐賀県は、湿原保全に動き出し、悪化している環境を良好な状態へ状態へと再生する自然再生事業を展開しました。そして現在も野焼きなどの様々な取組を継続しています。
人間の営みと自然が融合した樫原湿原
佐賀市中心部から車で約40分、福岡市中心部から車で約1時間40分というドライブコースには良い距離にあり、多くの人々が訪れる樫原湿原。湿原を観察するメインの散策道は、沼地に囲まれた中洲のような対岸の森を一周するように伸びており、ぬかるんだ場所には木道が設置されています。春から夏にかけては、日向ぼっこをしていたカエルがちゃぷんちゃぷんと、池に飛び込む音が聞こえたり、珍しい野草を発見したりするなど、多様な生物の営みを感じながら散策することができます。中洲のような森の中には苔むした石造りの鳥居があり、散策路は田舎の山道や畦道のような味わいのある箇所があります。橿原湿原は、人間の営みが生み出した二次的自然環境ということもあって、どこか懐かしい里山のような光景に出会うことも多々あります。みなさんも樫原湿原を訪れてみて、人間の営みと自然が融合した素晴らしさに触れてみてはいかがでしょうか。
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