豊富な水量を湛える無数の水路を堀として大規模改修した水郷の城、400年以上の歴史があり幕末の雄藩として日本を先導した佐賀鍋島藩の軌跡が見える佐賀城跡

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クリーク

近代的な城郭として400年以上の歴史のある佐賀城

佐賀県佐賀市にある佐賀城本丸歴史館は、江戸時代の鍋島氏の居城である佐賀城にあった本丸御殿を復元した建物です。鍋島氏が大規模な改修工事を施して近代的な城郭となった佐賀城は、400年以上の歴史があります。そして築城以来2度の大規模な火災に見舞われた佐賀城には、初期の頃から現存する建物はありません。佐賀城本丸歴史館の建物は、江戸時代後期に再建した本丸御殿にあたります。この本丸御殿は、古写真や記録などの資料が比較的多かったため、正確な再現が可能でした。今回は佐賀鍋島藩36万石の居城となった佐賀城の歴史に触れながら、佐賀城跡のある佐賀城公園の魅力に迫っていきます。

佐賀城本丸館の廊下

平安時代末期からの歴史のある村中城

鍋島氏が江戸時代初期に近代的な城郭の佐賀城に改修する前は、龍造寺氏の居城であった村中城がありました。村中城は別名佐賀龍造寺城とも呼ばれています。平安時代末期に藤原季喜が龍造寺村の領主となって土着すると、その子が龍造寺氏と称するようになりまく。村中城は、平安時代末期から鎌倉、室町時代にかけて龍造寺氏代々の本拠地となりました。やがて戦国時代に突入すると、戦国大名となった龍造寺隆信が勢力を拡大し、島津氏、大友氏と並ぶ九州三強の一人と称されましたが、沖田畷の戦いで落命してしまいます。

佐賀城本丸歴史館の玄関から外を眺める

鍋島氏の手により村中城を大規模改修し、佐賀城に名を改める

龍造寺隆信の死後は、今山の戦いで武功を挙げた家臣の鍋島直茂が、当主よりも力を持つようになり、龍造寺家の実権を握ります。そして龍造寺隆信の死から1年たった1585年には村中城の改修を計画します。しかし村中城は当主である龍造寺氏の居城であり、主君に憚って計画を実行することはできませんでした。その後江戸幕府から鍋島氏が正当な佐賀藩主として認められると、藩主となった鍋島勝茂は、村中城の改修工事に乗り出します。内堀の幅は80mにも及び、天守閣は小倉城天守の図面を参考に高さ38m外観4重内部5階建てのものが建造されました。こうして近代的な城郭を備えた城に生まれ変わった村中城は名を「佐賀城」と改め、36万石の大大名の鍋島氏の居城となります。

佐賀城の土塁と堀

全国の城の中でもトップクラスの外掘を誇った佐賀城

佐賀城から下流の方向へ水路をたどっていくと、日本一の干満差を持つ有明海に着きます。5.5〜6mにもおよぶ干満差は、海岸にたくさんの堆積物をもたらします。佐賀城のある佐賀平野は、この堆積の影響を受けた排水性の悪い土地が広がっており、これを解消するために、排水路と用水路を兼ねたクリーク(堀割)を無数にめぐらせる必要がありました。佐賀の先人たちはクリークを網の目のように構築し、人や物資を運ぶ水運や佐賀鍋島36万石を支える穀倉地帯を整備しました。このクリークは、農業や水運以外にも、軍事的にもかなり有効に働きます。佐賀城の外堀は一周すると約4㎞あり、江戸城外堀の5.5㎞に次ぐ長さにあります。佐賀城は、日本全国の城の中でも規模的にトップクラスの外堀を誇る城でした。また敵が攻めてきた場合、周辺の水路を遮断することで城の周囲を水浸しにして、天守閣などが湖水に浮かぶような仕組みにしていたのではないかといわれています。

佐賀城の鯱の門・続櫓

未完成のまま明治維新を迎えた近代城郭、佐賀城

佐賀城は、その地理的特質から防御性の高い堀割を縦横に張り巡らせることが出来ましたが、軟弱な地盤の平野に立地していたため、石の調達が困難でした。そのため本格的な石垣が築かれたのは、本丸の西側と北側だけにとどまりました。築城当時の計画と比べると建築されずに終わった櫓もあり、佐賀城は未完成のまま、明治維新を迎えました。また幾度も火災に遭い、1726年の大火災では天守閣をはじめ、本丸、二の丸、三の丸が焼け落ちてしまいました。その後二の丸が再建されます。藩政は二の丸を中心におこなわれましたが、1835年の火災で焼失してしまいました。これを受けて当時の藩主であった鍋島直正は、100余年ぶりに本丸を再建すると表明し、1838年に本丸御殿と現在も残っている鯱の門・続櫓ができます。こうして明治の廃藩置県まで、藩庁は本丸に置かれました。

佐賀藩主の鍋島直正像

佐賀鍋島藩の歴史に想いを馳せる佐賀城本丸歴史館

佐賀城本丸歴史館は、江戸時代後期に10代藩主鍋島直正が、再建した本丸御殿を復元したものです。本丸御殿は大正時代まで残っていたので、複数の古写真がありました。佐賀城本丸歴史館は、江戸時代の記録や絵図、発掘調査などをもとにして、遺構を保護しながら正確な復元をしました。また昭和32年まで小学校の作法室として使用され、その後移築されて公民館となっていた御座間が復元される本丸御殿に組み込まれるかたちで、旧位置に戻されました。予算の制約などで本丸御殿の3分の1程度しか復元されていませんが、木造復元物としては日本最大級の2500㎡の広さを誇ります。本丸御殿とは藩主が政治を行い、生活をしていた場所であり、佐賀城本丸歴史館は日本で初めて本丸御殿を復元した建物になります。館内では幕末の頃の展示が多く、佐賀鍋島藩が雄藩として、日本の近代化を先導した輝かしい歴史に想いを馳せることができます。

鯱の門に残る、佐賀の乱の戦闘でできた弾痕

佐賀の乱で使用された弾痕が残る鯱の門

佐賀城跡は現在、佐賀城公園として整備され、佐賀城本丸歴史館をはじめ、東堀や土塁などの復元が実現し、往時の姿を取り戻しつつあります。そして江戸時代後期の1838年に再建され、今も残っている鯱の門・続櫓は、36万石の大大名である鍋島氏の居城にふさわしい規模・格式を備えた門となっています。江戸時代後期に造られた鯱の門・続櫓には、攻めてきた兵に石で攻撃する石落としがなく、敵に侵入するための足場を与えかねない犬走が続櫓の周囲にあるなど、江戸時代の近代的な城郭としては珍しい造りをしています。平和の世が長く続いていたので、戦いを想定していなかったのかもしれません。しかし明治7年に起こった佐賀の乱では、江藤新平率いる反乱軍との戦闘があり、鯱の門には鮮明な弾痕が残っています。

他の近代的な城郭とは違う、ユニークな姿を見せる佐賀城跡

平和が当たり前と思っていてもいつ戦乱に巻き込まれるか分からないという歴史の教訓をこの鯱の門・続櫓は見せているように感じます。佐賀城跡はその地理的特質によって、全国にある他の近代的な城郭とは違うユニークな姿を見せている城です。皆さんも、佐賀城跡・佐賀城本丸歴史館を訪れてみて、その雰囲気を味わってみてはいかがでしょうか。

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