大陸進出の野望を抱いて築かれた巨大な城、豊臣秀吉晩年の政治パフォーマンスが垣間見える名護屋城跡

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佐賀県

天下人・豊臣秀吉の号令で築かれた名護屋城

佐賀県唐津市鎮西町名護屋にある名護屋城は、かつて玄界灘を望むようにそびえ立っていた安土桃山時代の巨大な城で、現在は、石垣だけが残る城跡となっています。天下統一を果たし、天下人となった豊臣秀吉はしだいに当時の中国を支配していた明を征服する野望を抱きます。そして大陸侵攻を実現すべく、朝鮮半島へ兵を送る拠点となる名護屋城を築きました。豊臣秀吉は築城にあたり、割普請という号令をかけ、九州各地の大名に、分担で工事を負わせました。その結果、野面石積み、算木積み、穴太積み、縦石積みなど、名護屋城内には、さまざまな石積みが見られます。今回は、中国大陸へ進出する一大軍事拠点として築かれた名護屋城について触れ、名護屋城に託した豊臣秀吉の夢の跡を確認していきます。

名護屋城本丸跡

波多一族の交易の拠点を、豊臣家の大陸進出の拠点に

名護屋城には肥前松浦地方で組織された武士団である松浦党の波多氏の一族、名護屋氏の居城であった垣添城がありました。柿添城は、見晴らしが良く、周辺の海域や馬渡島、加部島などの島々、快晴の日には、はるか壱岐島まで目視できました。そして城の周囲には、波多一族が交易の拠点としていた小さな湾がいくつかありました。豊臣秀吉は、出身の尾張国の那古野と同じナゴヤと発音をする地名に奇遇を感じ、また城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしたそうです。そして朝鮮出兵を決めた豊臣秀吉は、見晴らしが良く、周囲にいくつかの小さな湾を持つこの城を、大陸へ大軍を送り出す一大拠点にすることを決めました。そして豊臣秀吉の脳裏には、明を征服した後も大陸との貿易・交流の豊臣家の拠点として、名護屋城を活用することも考えていたのではないでしょうか。

名護屋城遊撃丸跡

豊臣氏が描いた政治パフォーマンス

波多氏の領地であった名護屋城周辺の土地は、豊臣秀吉の中国大陸侵攻計画の拠点としてうってつけの場所でした。散在している小さな湾の近くに諸大名の陣屋を置き、それぞれの陣屋に近い港から繰り出す軍船を、名護屋城の本丸から天下人豊臣秀吉が総覧するというシナリオが、朝鮮半島に近いという地理的条件下で実現できる土地でした。朝鮮出兵は、国内における豊臣政権を強固にし、天下人太閤秀吉を世に見せつける政治的パフォーマンスの側面があります。そんな豊臣秀吉の意向があったにも関わらずこの地の領主であった波多親は、「唐津は大軍の駐留に不向き」と忖度のない発言を行い、豊臣秀吉の不興をかってしまいます。しかし、この波多親の発言はまっとうな意見でした。20万もの大軍を駐留させるには平地が少なく、またこれほどの人数を賄うほどの水資源が確保できないという問題がありました。事実として豊臣家や諸大名の大軍が名護屋城周辺に駐留していた時、水不足が深刻で、水の確保に苦労しました。

 

曲輪の縁の石垣に登るために作られた相坂石垣 

短期間で出現した巨大な城と城下町

豊臣政権の威信をかけた名護屋城築城の大号令は、城作りに造詣の深い加藤清正や軍師として名高い黒田官兵衛をはじめとする九州の諸大名を中心に城普請にとりかかり、8ヶ月という驚異的短期間の突貫工事の末、1592年3月に完成しました。名護屋城の面積は約17ヘクタールあり、当時の大坂城に次ぐ大規模な城が、肥前松浦地方に出現します。城の周囲には130以上にも及ぶ諸大名の陣屋が形成され、約20万人以上の城下町が突如として出来上がりました。城下町の様子は京をも凌ぐ賑わいと当時の文献では記されており、豊臣秀吉が名護屋に滞在した延べ1年2か月は、臨時とは言え、日本の政治の中心を担っていました。

名護屋城天守跡から見た本丸跡

豊臣秀吉の死によって中止になった大陸侵攻計画

1592年、総勢15万の大軍が朝鮮半島に向けて名護屋を出発します。文禄の役の始まりです。それぞれの陣屋から大量の軍船が出航していく様子は、壮観なものがあったでしょう。戦国の実戦経験が豊富な諸将に率いられた日本軍は強く、また最新兵器の鉄砲の運用にも長けていて、弓矢中心の朝鮮軍を圧倒しました。朝鮮半島南部の釜山に上陸した日本軍は、連戦連勝で、平壌を占領します。しかし明の軍隊が到着すると、日本軍は苦戦を強いられます。朝鮮水軍の攻撃などで補給が乏しくなった日本は、一旦明と和睦を結びますが、1597年に再び戦争状態になります。これが慶長の役です。この戦いは、手堅く勝利を重ねていきましたが、1598年の豊臣秀吉の死によって、大陸侵攻計画は中止となり、朝鮮半島にいた日本軍は撤退します。

豊臣政権の軍事バージョンを世に知らしめた名護屋城

名護屋城は、標高約90mある波戸岬の丘陵を中心に築かれた平山城です。金箔を用いた五重七層の天守や御殿などが建てられ、黄金の茶室を名護屋城内に運び込むなど、贅を極めたお城でした。名護屋城を中心に半径3km圏内には、諸大名の陣屋が置かれました。名護屋城は、城の周りに大名屋敷を置いて、豊臣家が天下の政治を行っていた伏見城の軍事バージョンとも言えます。豊臣家は武家の棟梁たる征夷大将軍を得られなかったものの、関白太政大臣として、軍事の統帥権があることを世に知らしめる絶好の機会が、文禄・慶長の役であったと言っても過言ではありません。

真っすぐに伸びる名護屋城跡の馬場

豊臣秀吉の儚い夢の跡が残る名護屋城跡

名護屋城跡を歩いていると、城が立地している曲がりくねった丘陵地帯に似つかわしくない真っ直ぐな道が表れます。これは真っ直ぐな道を好んだ豊臣秀吉が意図的に作ったものです。豊臣秀吉が作った伏見城にも同じく真っ直ぐな道があります。たとえ困難であっても、是が非でも自分の思い通りにしようとする豊臣秀吉の意志があらわれている道です。豊臣秀吉が中国大陸を思い通りにしようとして、威信をかけて起こした文禄・慶長の役は失敗に終わりました。豊臣秀吉が亡くなり、主を失った名護屋城は、廃城となります。そして江戸時代になるとキリシタンが名護屋城に立て籠って抵抗しないように、石垣が破壊されます。名護屋城は、豊臣秀吉が大陸への野望を抱いた約7年間という短い期間に歴史に名を残しました。現在は、遠くの海や島々が望める古代の軍事遺跡のように目に映る名護屋城跡。皆さんも、名護屋城跡を訪れてみて、豊臣秀吉が抱いた儚い夢の跡を、確認してみてはいかがでしょうか。

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