規模は小さめながら、約600年の歴史がある杵築城
大分県杵築市にある杵築城は、室町時代初期に守護大名の大友氏の傍流である木付氏によって築かれた城です。「日本一小さい城」ともいわれる杵築城は、規模は小さめながら北は高山川、東は守江湾と天然の要害に囲まれた堅固な城です。杵築城は約600年の歴史があり、戦国時代の戦乱や天災、地震などで場所や形を変えていきました。現在は資料館を兼ねた模擬天守が建てられ、城主が代わりながらも発展していった杵築城の歴史を今に伝えています。杵築は当時の日本の物流の大動脈であった瀬戸内海航路に、アクセスしやすい地の利があり、この地を支配することは重要な意味がありました。戦国時代はこの小さな城を巡っての争いが絶え間なくあり、また江戸時代は城主が頻繁に代わりました。今回は時代とともに変化していった杵築城の歴史に触れながら、その魅力に迫っていきます。
海上交通の利便が良く、古代から発展していった杵築
大分県杵築市は国東半島の南部に属し、瀬戸内海の西端に位置します。守江湾に注ぐ八坂川河口付近に市街地を形成しており、九州と関西、そして瀬戸内地域を結ぶ瀬戸内航路にもアクセスしやすい場所にあります。古墳時代には、200墓以上にのぼる古墳が確認され、出土品などから当時の政治の中心地であった畿内との関わりが強いものが多く見つかっています。杵築は海上交通の利便性が良いこともあり、古代社会における重要な地域であったことは間違いないようです。江戸時代は城下町が栄え、今も貴重な文化財が杵築の町並みに残っています。大変興味深い内容の多い杵築の城下町については、また違う回で触れさせて頂きます。
杵築城を築城した木付氏
杵築の地に木付氏が入ったのは、1250年の鎌倉時代末期でした。豊後を治めていた大友親秀の6男の親重は鎌倉幕府の命で、豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘に赴任し、地名をとって木付を姓とします。その後、室町時代初期の1393年に4代当主の木付頼直が、八坂川の河口にある高台に杵築城(当時は木付城)を築きました。戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの最前線になり、島津の大軍を当時の木付鎮直が籠城の末これを退け、別名「勝山城」と呼ばれるようにもなりました。杵築の地において華々しい歴史を築いてきた木付氏でしたが、豊臣政権の時代に起きた文禄・慶長の役で本家の大友氏が、失態を咎められ改易となります。当主であった木付鎮直は、城内を掃き清めて、妻とともに自害しました。約340年に及ぶ木付氏の歴史は幕を閉じたのです。
木付氏滅亡後、目まぐるしく変わる杵築城主
木付氏滅亡後の杵築は豊臣家の入蔵地(直轄地)となり、1596年に杉原長房の所領となります。その後1599年には、丹後宮津を本領としていた細川氏の飛び地となりました。関ケ原の戦いが起こった頃には、旧領の復活を試みる大友氏の旧臣の吉弘統幸によって攻撃を受けますが、黒田官兵衛によって救援されています。細川氏が熊本に転封となると、小笠原氏が1632年に入城し、ここを本拠地とする杵築藩が成立しました。小笠原氏は、島原の乱での戦功や藩内での植林事業で一定の成果を上げます。その功績が認められ、藩主の小笠原忠知は、三河吉田に加増移封されました。小笠原氏の後に、杵築に入ったのは松平氏でした。1645年に入城した松平氏は、幕末まで杵築藩を治めました。
泰平の世で高台の城郭が廃される
江戸時代になって泰平の世が続いたこともあり、杵築城で行われてきた藩政もしだいに麓の藩主御殿に移っていき、松平氏が統治する時代には移転が完了し、高台の城郭は廃されました。藩主御殿は、現在の杵築神社、旧杵築中学校、旧杵築図書館付近に位置しており、堀や石垣、庭園の遺構が残されています。松平氏は新田開発などに力を注ぎ、杵築に残る城下町は、松平氏統治時代の繁栄を今に伝えます。また「木付」から「杵築」に地名が変わったのも松平氏の時代でした。1712年の幕府の朱印状に「木付」と書くべきところを「杵築」と記されていたため、幕府に伺いを立てたところ「杵築」と表記されるようになりました。
模擬天守を建て、城山公園として整備し、市民憩いの場となった杵築城跡
明治の廃藩置県で、杵築城は廃城となります。戦後になると杵築城の復元を望む地元の人々の声が高まり、本丸の天守台跡に3層の鉄筋コンクリートで出来た模擬天守が、昭和45年に完成しました。標高約20mある天守からの見晴らしが良く、杵築市街地や瀬戸内海、気象条件が良ければ、本州の山口県や四国の愛媛県まで見渡すことが可能です。天守からの眺めは、海上交通の要衝として、杵築がいかに良い位置にあるかを確認することができます。杵築市はこの小高い杵築城跡を城山公園と整備し、自然豊かな市民の憩いの場所となっています。また桜の名所としても知られており、小高い天守へ行く道には約250本ものソメイヨシノが植えられています。春になると桜のアーチが生まれ、杵築城跡を彩ります。
小大名ながら苦難を乗り越え、幕末まで続いた杵築藩の本拠地「杵築城」
鎌倉時代の末期に木付氏が本拠地として以来、杵築は武士の町として発展していきました。大友氏が滅亡し、木付氏が去った後の杵築は小大名の入れ替わりが頻繁に起こります。江戸時代の杵築藩は2~4万石という小さな藩でした。また天災も多く、藩政を苦しめました。明治の廃藩置県で、杵築藩は無くなりましたが、小藩ながらも、幾多の苦難を乗り越えていった歴史がありました。杵築は小さな街でしたので、再開発が施されることなく昔ながらの城下町が残りました。そして昭和45年に模擬天守が建てられ、杵築は城と城下町の風情が残る観光地として、輝いています。皆さんも杵築城跡を訪れてみてはいかがでしょうか。
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