消滅の危機に立たされながらも人々の努力で安土桃山時代に建築した天守閣が今も残る城、積み重ねてきた歴史と美しい自然が調和した松本城

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現存する五重六階の天守を持つ松本城

長野県松本市にある松本城は、信州の山々を背景に、黒漆喰と白漆喰のコントラストがとても映える豪壮な雰囲気を持つ城です。安土桃山時代に建てられ、今も現存する五重六階の天守は、日本最古といわれています。松本城は、戦国時代から江戸時代にかけて発展・整備された城で、各時代の建築土木が垣間見られるところが魅力的です。また明治時代以降は、松本城の消滅の危機が幾度と訪れました。今回は松本城の歴史に触れながら、松本市の代表的観光地として、多くの人々から親しまれている松本城について迫っていきます。

本丸庭園から見る松本城天守閣

深志城を改め松本城へ

松本城は、戦国時代に築かれた深志城が始まりです。松本一帯を支配していた戦国大名の小笠原氏は林城を本拠とし、その前衛として深志城を構え、守りを固めました。その後武田信玄が侵攻し、松本一帯を領有するようになると、松本盆地を治める拠点として深志城を利用するようになります。武田氏滅亡後は、松本の領有を巡って争いますが、武田信玄によって領国を追われた小笠原貞慶が、本能寺の変の動乱に乗じて深志城を取り戻しました。小笠原貞慶は、徳川家康の配下となることで領国経営の安定をはかり、深志城を松本城に改め、城郭や城下町の整備に着手します。しかし1590年の徳川氏の関東移封により、小笠原氏も、城郭や城下町の整備が道半ばのまま上総国の古河へ移ることになりました。

松本城天守閣から埋橋を見る

松本城とその城下町を整備した石川氏

小笠原氏の後には、かつて徳川家康の家臣であった石川数正が豊臣秀吉の命で、松本城に入りました。石川数正は、小笠原貞慶が始めた城郭整備をさらに進めました。石川数正は松本城に入ってわずか3年後に亡くなってしまいますが、家督を継いだ息子石川康長の時代に、大規模な近代城郭が完成しました。石川氏は、天守のほかに御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を形成し、三の丸に武士の屋敷を設けました。また城下町の整備も積極的に進め、 松本を経済都市として発展する礎を築きます。現在まで続く松本城や松本の町並みは、石川氏の統治時代にその基礎が出来上がりました。

松本城天守から松本市街を望む

江戸時代を通して発展した松本

松本城を立派な近代城郭に改修した石川氏でしたが、徳川家康は石高に見合わないほど壮大な城と城下町にした石川氏を、警戒しました。1613年に江戸幕府家老の大久保長安の不正蓄財が発覚すると、大久保氏と縁戚関係にあった石川氏にも処分がくだり、豊後国へ改易させられてしまいます。その後、明治維新まで小笠原氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏の5氏が入れ替わり統治しました。その中でも戸田氏は、1726年から幕末までの約1452年の長きにわたって松本城の城主を務めました。江戸時代を通して城と城下町のある松本は、地域の中心地として発展しました。

松本城天守閣の内部

松本城を取り壊しから救った市川量造

明治維新後の松本城は、城の主を失い国が接収します。また、西洋式の装備と戦術を取り入れ軍隊の近代化をはかった新政府は、城郭は時代遅れとして明治6年に廃城令を出します。これにより全国の多くの城は取り壊され、松本城もその運命を辿りそうになりましたが、松本の名主であった市川量造は、「城がなくなれば松本は骨抜きになる」と訴え、松本城で博覧会を開いたり、私財を投げ売ったりして資金を工面し、国から払い下げを受け、天守の取り壊しを考えていた松本城の所有者から買い戻すことに成功しました。

松本城黒門

松本城の老朽化問題と向き合う人々

明治時代後半には松本城の老朽化が問題になりました。中学校長の小林有也は城を後世に残すことが重要と考え、明治34年に「松本天守閣保存会」を発足させます。そして改修工事が施され、その工事費用は松本市からの補助金などもありましたが、約8割は松本天守閣保存会の会員からの寄付で賄いました。太平洋戦争では、松本での大規模な空襲がなかったこともあって、消滅の危機を乗り越えることができました。戦後の占領軍により、文化的重要性が認められた松本城は、昭和25年から昭和30年にかけて国の直轄工事として大規模な解体修理を行い、これまで対処的だった老朽化問題を根本的に改善することができました。

たくさんの銃を撃つ窓がある松本城天守閣

戦いの世と泰平の世の建物が複合した松本城の天守群

安土桃山時代の建築から現在に残っている松本城天守閣は、同じく現存する天守閣を持つ姫路城、彦根城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されています。石川氏が松本城に建築を施した安土桃山時代は、武力で政治を行う武断政治の時代でしたので、戦いに対する備えが随所に見られます。松本城の天守閣は、壁の厚さが約29cmあり火縄銃の弾が貫通できない設計をしており、2階にある武者窓は、3連及び5連の格子窓から火縄銃を発砲できるようになっています。ところが泰平の世になった江戸初期に統治した松平氏が建築した辰巳附櫓と月見櫓は、戦いの備えをほとんど持たない優雅な様式で造られています。性格の違う時代の建築が複合された城郭の天守群は、松本城の大きな特徴であり、時代の流れを感じる貴重な文化財でもあるといえます。

積み重ねてきたものとの調和している松本城

徳川家家臣から出奔し、豊臣秀吉の側近となった石川数正は秀吉から松本の地を与えられ、この地から関東へ移封した徳川家康の監視を命じられます。石川氏時代に築かれた天守閣をはじめとする城郭にはその当時の軍事的緊張を感じます。それと同時に軍事に重きをおいた機能美を感じ、平和な江戸時代に建てられた櫓との調和した美を感じます。さらに遠くに目を遣ると美しい松本の町並みと美しい信州の山並みが調和しています。松本城は時代の流れと人々の営み、そしてはるか昔から脈々と続いてきた自然が見事に融和しています。松本城には幾多の存亡の危機を乗り越えながら積み重ねてきたものがたくさんあります。皆さんも松本城を訪れてみて、確かめてみてはいかがでしょうか。

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