古くから交易の盛んだった平戸に築かれた平山城、松浦党の流れをくむ平戸松浦氏の歴史が重なって見える壮大な規模の平戸城

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松浦氏が築城した平戸城

長崎県平戸市にある平戸城は、平戸港に突き出た標高約53mの亀岡山に築城された平山城です。別名亀甲城と呼ばれ、三方を海に囲まれた天然の要害に立地している平戸城は、平戸港や出入りする船舶、平戸大橋、寺院、教会など平戸を代表するような風景を見渡すことができます。平戸城は、平戸藩の居城として江戸時代の平戸地域の政治の中心的な役割を担いました。平戸藩主の松浦氏は北部九州で勢力を誇った武士団「松浦党」の一族であり、その出自は平安時代までさかのぼる大変古い歴史があります。そんな武家の名門である松浦氏でしたが、戦国時代の乱世や江戸時代の徳川幕藩体制を生き残るためには、並大抵ではありませんでした。今回は平戸松浦氏の歴史に触れながら、その居城であった平戸城について掘り下げていきます。

懐柔櫓付近から本丸を望む

平戸地域を拠点に、勢力を伸ばした平戸松浦氏

松浦氏は、嵯峨天皇の皇子である源融を始祖とし、平安時代に、北部九州で松浦党を率いて一大勢力を築きました。平戸の松浦氏は、その傍流にあたり、鎌倉時代から室町時代にかけ、平戸地域を拠点にして勢力を伸ばしていきました。北部九州にも影響力のあった大内氏の力を借りながら、海外貿易に力をいれ、富を蓄えて行きます。こうして平戸松浦氏は、豊かな経済力を背景に領土を広げていき、肥前国でも有力な大村氏や有馬氏と肩を並べるほどの勢力を築きました。

明治時代の廃藩置県でも取り壊されず、現在に残る北虎口門

日本を代表する貿易港として発展した平戸

長崎県の西の端に位置する平戸は、古くから海を通じた貿易が盛んな場所でした。鎌倉時代に平戸に勢力を持った松浦氏は、平戸港を拠点に、対外貿易に乗り出します。1225年頃には11代当主松浦持が平戸港を見下ろす山頂に「御館山城」を築きます。南北朝時代には平戸港への見晴らしの良い「勝尾嶽城」に移り、その支配基盤を強化します。1550年にポルトガル船が来航すると、西洋との貿易をいちはやく始め、日本を代表する交易の窓口として繁栄しました。1587年の豊臣秀吉の九州平定では、当主であった松浦鎮信が豊臣政権に接近し、その領地を認められました。そして1599年に現在の平戸城のある地に、その前身となる日の岳の築城にとりかかります。

平戸城天守閣から平戸港の入口付近を望む

完成して程ない日の岳城を焼き払った松浦氏

日の岳城は、小高い亀岡山と三方の海を天然の要害とした近代城郭でした。オランダの宣教師が編さんした「東インド会社遣日使節紀行」には七重の天守閣が描かれていました。これは想像上の描写なので事実と認定することは出来ませんが、巨大城郭を備えた存在感のある城だった可能性があります。また城からは平戸港やその周辺の海域を見渡すことができたため、行き交う船舶を監視するのに、ふさわしい立地でした。松浦氏当主の松浦鎮信は、12年以上の歳月をかけて1613年に日の岳城を完成させます。しかし松浦鎮信は、完成して程ない日の岳城を焼き払ってしまいます。

江戸時代の平戸藩が天守閣の代用としていた乾櫓

幕府から城の修復の許可が出る

松浦鎮信が城を焼き払った理由については諸説ありますが、豊臣氏との関係が深かった松浦氏が、幕府の嫌疑を払拭するためとも、最愛の嗣子、松浦久信の死によるものともいわれています。城の焼失後は御館山城跡の下方に「御館」という館を建設し藩庁としました。しかし藩の政治を行うにあたって手狭であったことは否めませんでした。その後、幕府の鎖国政策により、平戸のオランダ商館が閉鎖されるなどの出来事を経て、5代藩主の松浦棟の時代には、江戸幕府の寺社奉行に任命されます。外様大名である松浦氏が、寺社奉行になることは極めて異例のことでして、江戸幕府の中で、ある一定の地位を占めることになりました。そして1703年に、幕府から廃城となった日の岳城の修復を許可されます。

天守閣から見奏櫓を見る

小高い亀岡山に築かれた重厚感のある平戸城

先代の藩主が山鹿素行を師事していたこともあって、築城指導は実子の山鹿義昌によって建設が進みます。こうして播州赤穂城と同じく山鹿流軍学に基づく縄張りの城が1707年にほぼ完成し、「平戸城」と名付けられました。平戸城は、小高い亀岡山の頂上から麓まで城郭を形成した重厚感のある城でしたが、幕府に気を遣って天守閣は造らず、二の丸に建てた乾櫓を天守の代用としました。明治4年の廃藩置県で廃城となり、翌年に大半の建物が取り壊されましたが、搦手門にあたる北虎口門と狸櫓は解体を免れ、現在も残っています。現在の亀岡神社のあるところが二の丸跡で、かつて二の丸御殿がありました。本丸の見奏櫓と懐柔櫓は、天守とともに昭和37年に復元され、往時の姿を偲ぶことができます。見奏櫓からは、平戸港や周辺海域がよく見え、船舶を監視するにはうってつけの場所であったことが良くわかります。

平戸城と城下町を結んだ幸橋

平戸城と城下町を結んだ幸橋

平戸城は、天然の要害に守られ、平戸港周辺の船舶を監視できるという優れた場所にありました。しかし平戸の城下町へ行くには湾が隔たっていたため、大きく迂回しなければならず、大きなネックとなっていました。それを改善すべく建設された幸橋は、平戸藩の藩庁である平戸城と、経済活動が活発な平戸城下町のアクセスを向上させました。最初は木造で建設されましたが、後に石橋に架け替えられました。橋の石材はオランダ商館のものを転用したといわれ、別名オランダ橋と呼ばれています。平戸には海に面した貿易都市を匂わせるものが随所にあります。

 

多くの人々から親しまれ、平戸に大きな存在感を示している平戸城

対外貿易の拠点が長崎の出島に移った後は、平戸港の商いによる収入が減り、平戸藩の財政が苦しくなりますが、藩政改革を行うことによって再び藩の財政が安定します。平戸藩が幕府の要職に就くようになった江戸時代中期に、日の岳城を改修して完成した平戸城は、そんな平戸の新しい時代を象徴するお城でした。時代を経て多くの人々に親しまれてきた平戸城は、現在も平戸のシンボルとして、その大きな存在感を示しています。皆さんも平戸城を訪れてみて、その存在を確かめてみてはいかがでしょうか。

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