天然の要害の地にある有馬氏が整備した近代城郭の城、島原の乱で一揆勢が集まり悲劇の歴史を持つ原城跡

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カトリック

島原の乱で多くの悲劇があった原城跡

長崎県南島原市にある原城跡は、約400前に起こった島原の乱で、キリシタンの間で救世主として擁立された天草四郎が率いる約3万7千の一揆軍が、約12万の幕府方の軍勢を相手に、激しい籠城戦を展開した城跡です。およそ3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、兵糧が尽きた一揆軍は、幕府方の軍に破れました。一揆軍の大半の人間はこの戦いで死に、生き残った人も処刑されました。一方の幕府方も、一揆軍の決死の抵抗で、多数の死傷者が出ました。島原の乱は、飢饉や領主の圧政に耐えかねた農民がキリスト教を旗印に、立ち上がった一揆です。もともと武士であった浪人やキリスト教へのあつい信仰心のある人々を中心に構成された一揆軍は強大で、鎮圧に老中の松平信綱が出陣した程でした。今回は島原の乱で多くの悲劇があった原城跡について迫っていきます。

原城の石垣

天然の要害に、最新の石積技術を施した原城

原城は、肥前で勢力を誇った戦国大名の有馬貴純によって1496年に築かれました。海岸に突き出した丘に主要城郭がある原城は、東は有明海、西と北は一部を除いて満潮時には海水が入り込む低湿地に囲まれた天然の要害の地にあります。1604年には、より堅固な改修工事を施した城として完成しました。本丸は総石垣で出入り口は枡形という安土桃山時代に確立された最新の石積技術が用いられています。

海岸線から本丸跡を望む

原城を良く知っていた有馬氏の旧家臣団

原城に最新の石積技術を施すのを可能に出来たは、当時の有馬家当主であった有馬晴信が文禄・慶長の役の際に、肥前名護屋城や朝鮮半島に築かれた倭城の築城技術を吸収し、原城の改修工事に生かしたのではないかと考えられています。こうして近代的な城郭を備えたお城となりましたが、その後有馬氏は日向へ転封となり、原城は廃城となりました。しかし島原の乱が勃発すると、一揆軍の本拠地となります。有馬氏の旧家臣団は一揆軍の指導的立場にありました。彼らは堅固で、近代的な城である原城を知り尽くしており、戦いを有利に進めるために、一揆軍の拠点とすることを強く主張したのではないでしょうか。

島原城跡にひろがるねぎ畑

領主の圧政に対する一揆から始まった島原の乱

1637年12月、領主の松倉勝家の圧政に耐えかねた農民が南有馬村で代官を殺害したことをきっかけに島原の乱が始まります。一揆軍は島原南方の深江で、板倉氏の軍を破り島原へ攻め込みます。これに呼応するように天草で、天草四郎率いる一揆軍が、唐津藩の飛び地となっていた領地で蜂起します。その後、幕府の援軍が来るとの情報を察知し、海を渡って島原の一揆軍と合流します。

 

一揆軍の軍事的な差配を行ったキリシタンの有馬氏旧家臣団

この一揆の主導者はカリスマ性をもったキリシタンの天草四郎ですが、軍事的な差配は有馬氏の旧家臣団が行っていました。つまり経験豊富な戦のプロが戦略・戦術を練っていたことになります。彼らはキリシタンで、キリスト教が禁教になってからも改宗することをしませんでした。そのため有馬氏の転封後は、他の大名から召し抱えられることもなく、農民として生活していました。

原城の天草四郎像

原城に集まった一揆軍の勢力

天草四郎の一揆軍へは、島原・天草地方のキリシタンはもとより、全国から浪人、またキリスト教に改宗した農民などが集まり、大軍勢となりました。飢饉や領主の圧政がきっかけで農民が蜂起した島原の乱は、あついキリスト教信仰を媒介として多く人々が結び付き、日本史上最大の一揆へと発展していきました。事態を重くみた幕府は、討伐軍を派遣します。そして一揆軍はこれを迎え撃つために、一揆の勢力を原城に集めました。

近年の発掘調査で、一揆軍の信仰心と幕府の敵がい心があらためて浮き彫りとなる

近年盛んに行われている原城跡の発掘調査では、キリストや聖母マリアなどを刻んだメダル、ロザリオの玉、鉛の銃弾を溶かして作った十字架などが多く出土されています。そして原城の正門付近では大量の人骨が見つかりました。骨の状態から幕府方が、一揆軍の人の首や足を切って惨殺していたことがわかりました。発掘調査で、一揆軍のあつい信仰心と、それに対する幕府方の強い敵がい心があらためて浮き彫りとなっています。

原城の城郭内にある巨大な空堀

原城での激戦、そして皆殺しの結末

一揆の鎮圧に来た幕府方の軍と一揆軍は激しく戦い、総大将の板倉重昌を戦死させるなどの戦果を挙げましたが、次に鎮圧にやってきた老中の松平信綱は、12万の大軍を率いて原城を包囲しました。有明海にオランダ船を浮かべ砲撃を加えながら、兵糧攻めを行います。包囲して3ヶ月後の1938年4月、兵糧が尽きて弱くなった一揆軍を見計らって総攻撃を開始し、原城を落城させ、一揆の主導者天草四郎を討ち取りました。厳しいキリシタン弾圧を行っていた幕府は、降伏した一揆軍に対しても、原城の守備兵だけでなく、女性や子供も皆殺しにしました。

歩くといろんな発見がある原城跡

原城の本丸跡は丘陵の上にあり、木々や耕作地の緑が一際美しく見えます。また海に目を遣れば、海を隔てて点在する天草島々の美しい情景が展開します。原城の城郭は阿蘇の大噴火で出来た堆積物で出来ており、自然が生み出した美しい景勝地でもあります。約400年前に悲劇が起きたのかと疑いたくなるような美しい自然が展開する原城跡ですが、城内の様々な文化遺構に目を遣ると悲しい史実が目に浮かんできます。原城にある巨大な空堀は防御だけでなく、女性や子どもなどの非戦闘員を匿う役割を果たしていたそうです。戦闘に参加しない彼らは、賛美歌や祈りを行い、戦う一揆軍の兵に勇気を与えていたのかもしれません。落城の際には、笑顔で炎の中に飛び込む子どももいたそうです。幕府は落城後の原城を破壊し、軍事的に価値のないものにしました。そんな破壊された原城にお地蔵さんが建っています。「ほねかみ地蔵」と呼ばれ、島原の乱から約130年後に、この地にある願心寺の住職と周辺の庄屋たちが敵味方に関係なく遺骨を集めて建立しました。当時はお上の命令は絶対でしたが、100年以上の歳月が流れてやっと、犠牲者の鎮魂が出来るようになったのかもしれません。原城跡を歩いてみると人間本来の姿とは何なのだろうかと、つくづく感じさせられるものがたくさんありました。皆さんも原城を訪れてみていろんな発見をしてみてはいかがでしょうか。

原城跡にある「ほねかみ地蔵」

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