キリスト教信仰の歴史がある出津集落に建てられた出津教会
長崎県長崎市の外海地域にある出津教会は、明治時代のキリスト教解禁後、ド・ロ神父の指導のもとに建てられたカトリックの教会です。出津教会のある出津集落は、江戸時代のキリスト教禁教政策で、厳しい取り締まりが行われている中でも、キリスト教信仰が組織的に継承されてきた集落でした。そんな信仰の文化が形成されていた出津集落にド・ロ神父は赴任します。ド・ロ神父は明治政府のキリスト教解禁後に、カトリックの布教活動を行うかたわらに、女性の自立を促すための出津救助院を創設するなどの慈善事業にも熱心に取り組みました。出津集落は、キリスト教信仰の歴史やド・ロ神父の慈善活動の痕跡が見られる集落でもあります。今回は、出津集落の潜伏キリシタンの歴史や出津でのド・ロ神父の足跡に触れながら、出津集落の住民とド・ロ神父の結節点でもある出津教会と出津救助院について掘り下げていきます。
イエズス会の宣教活動で多くの住民が洗礼を受けた外海地域
出津集落は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つです。出津集落は、大野集落とともに潜伏キリシタンの遺産が残る外海地域を構成する代表的な集落となっています。西彼杵半島の西岸にあたる外海地域は、1571年にイエズス会の宣教師カブラルらが宣教活動を行い、その結果多くの外海地域の住民が洗礼を受けました。そして1592年には外海地域の神浦地区に宣教師の住居としてレジデンシアが置かれるなどキリスト教が盛んになっていきます。しかし江戸時代にキリシタンの弾圧が強まっていくと、住民は改宗を余儀なくされ、キリスト教の勢力は弱まっていきました。そんな苦境下にあっても、キリスト教信仰を捨てなかった信者たちは、キリスト教由来の聖画像をひそかに拝む潜伏キリシタンとなり、教理書や教会歴をよりどころとした暮らし方をすることによって信仰を実践しました。
潜伏キリシタンが、組織的な信仰を行っていた出津集落
外海地域のキリスト教徒は厳しい弾圧を受けたため、隠れて信仰せざるを得ず、組織だった信仰が出来なくなりました。江戸時代の出津集落は外海地域にありながら、佐賀藩の飛び地であったこともあり、キリスト教弾圧も比較的穏やかでした。庄屋をはじめとする集落の有力者も表向きは出津代官所の管轄のもとで仏教寺院に属しながら、キリスト教を信仰する潜伏キリシタンでした。出津の人々は宣教師に変わる共同体の指導者を中心とする組織的な信仰を続けました。そのため出津集落を流れる出津川の流域には、祈りをささげるために聖画像を隠していた屋敷跡や潜伏キリシタンの墓地などがあり、当時の宗教活動の痕跡が数多く残っています。そして明治のキリスト教解禁後に、潜伏キリシタンの文化が根強い出津へやってきた宣教師がド・ロ神父でした。
潜伏キリシタンからの解放を象徴した出津教会
フランス人のド・ロ神父は明治元年に、まだキリスト教の禁教が解かれていない日本に行き、長崎や横浜で宣教のみならず数々の功績を残しました。そして明治12年に外海地域の主任司祭となり、明治15年にはド・ロ神父の設計・工事監理による出津教会が建築されます。地域のキリスト教徒たちは、労働奉仕や寄付などを行い、教会の建設を支えました。こうして完成した出津教会は、地域のキリスト教徒にとって、潜伏キリシタンからの解放を象徴するものとなります。その後出津教会は、明治24年と明治42年に増改築を施しました。外壁は煉瓦造り、内部は木造、屋根は桟瓦葺きであり、和洋折衷の建築様式となっています。また東シナ海からの強風に配慮して、低平な姿と見せています。
ド・ロ神父が慈善事業を展開した旧出津救助院
傾斜地が多く農地が少ない外海地域は、「陸の孤島」と呼ばれていました。また漁業を行うにしても、沖合いの海は波が荒いため、海難事故で夫を失う家庭も多く、残された妻子は貧困に苦しんでいました。ド・ロ神父はこうした外海地域の人々の貧困を目の当たりにし、「魂の救済だけでなく、その魂が宿る人間の肉体、生活の救済が必要」と痛感しました。そしてフランスで培った建築・医学・産業などの知識を活かしながら教会を中心とした慈善事業を展開していき、明治16年には、代官所跡地に旧出津救助院を創設します。ド・ロ神父は、私財を投じて織物、素麺、マカロニ、パン、醤油などの生産設備を建設し、女性たちに手に職をつけさせ、自立することを支援しました。その他にも、農業、漁業、土木と幅広い分野での支援を行い、飢えで苦しむ人や病人救済、薬局などを設け、外海地域の人々に寄り添うような活動を74歳に亡くなるまで続けました。貧困に苦しみながらも、信仰に励む出津集落の民衆に自立して生きる力を与え、集落の人々からは「ド・ロさま」と呼ばれて親しまれました。
カトリックと隔たりのあった潜伏キリシタンの信仰
明治のキリスト教解禁後に出津集落でカトリックに復帰したのは約3000人だったのに対し、引き続き潜伏キリシタンの信仰を実践し続けた人は約5000人にものぼりました。江戸初期から独自の文化となって発展してきた潜伏キリシタンとカトリックは、その信仰において大きな隔たりがあり、お互い相容れないものがありました。しかしド・ロ神父などのカトリック教会による布教活動などもあって、20世紀中頃にはカトリック教徒と潜伏キリシタンの割合はほぼ半々となりました。現在の出津集落は、過疎化が進んだこともあって人口は減りましたが、カトリック信者は約300世帯、900余名います。また潜伏キリシタンの多くは、仏教徒、またはカトリックへと移行しました。
苦境を生き抜いた民衆とキリスト教信仰の歴史が見える出津集落
斜面の多い出津集落は、江戸時代中期の甘藷栽培の拡大に伴い、傾斜地の開墾が進みました。幕末には、山頂まで段々畑が切り開かれているところが多くなり、現在もほとんど変わることなく出津集落の代表的な景観となっています。開墾時に出てきた結晶片岩を使って、土留めの石垣や防波・防風の石塁、石塀や建物の石壁などに利用し、赤土や藁すきを練り込んで築かれた「ネリベイ」などもあります。明治時代になると赤土に石灰を混ぜた石壁である「ド・ロ壁」がド・ロ神父によって導入され、多様性のある出津集落特有の景観を生み出しました。出津集落には、貧困や江戸時代の弾圧に生き抜いた民衆や、ド・ロ神父に代表されるカトリックの歴史の痕跡が今も残っています。皆さんも出津集落を訪れてみて、出津集落の景色を味わってみてはいかがでしょうか。
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