幼少時代を平戸・川内で過ごした鄭成功
長崎県平戸市にある港町・漁港の町として発展した川内は、明朝復興を掲げて清朝と戦い、また当時植民地であった台湾をオランダの支配から開放した中国・台湾の英雄である鄭成功が幼少時代を過ごした町です。日中混血の子として出生した鄭成功は7歳まで平戸で育ち、その後中国福建省に渡りました。波が穏やかな川内の港は、古来より海外との交易で栄えていた平戸港の副港の役割を担っていました。そのため平戸が海外貿易の重要な地位を占めていた時代は、国際色があふれる港町として繁栄していました。今回は、幼少期を平戸で過ごし、東アジアで活躍した鄭成功に触れながら、鄭成功にゆかりのある川内の町を取り上げていきます。
平戸の川内を拠点に中国人海商として活躍した父・鄭芝龍
室町時代末期の中国人海商は、当時東シナ海に勢力を誇っていた和寇の活躍に呼応して日本の沿岸にも活動の拠点を置きました。中国人海商であった鄭成功の父・鄭芝龍は、平戸老一官と称して平戸の川内に屋敷を構え、数千名の配下を持つ海商の頭領として活動しました。鄭芝龍は、平戸を拠点としていた時期に川内に在住していた田川マツをめとり、マツはこの二人の子供である鄭成功を生みます。川内港の近くの千里ヶ浜に千里ヶ浜の児誕石があります。マツが千里ヶ浜で貝拾いをしていた時、にわかに産気づきここの石にもたれて鄭成功を出産したといわれている場所です。千里ヶ浜は砂浜が広大に続く景勝地であり、千里ヶ浜海水浴場の一角にある鄭成功記念公園には、海を見つめる鄭成功の像があります。像の他にも記念碑などがたっていますから、訪れてみて思いを馳せてみるのもいいでしょう。
国際色豊かな川内の町で育った鄭成功
川内港は平戸島の北東部にあたり、九州本土に挟まれた海域にあるため、外洋の荒い波を受けない穏やかな港です。平戸港への距離は約6kmと近い川内港は、難所である平戸瀬戸へ航行する船の風待ち・潮待ちの港として、また、平戸港を補完する副港として室町時代末期から江戸時代初期の頃にかけて大いに栄えました。川内港の北側には港町が形成され、倉庫群や船舶修理所、寄港した船員のための宿舎や遊廓などが建ち、賑わいを見せました。そんな港町川内で幼少時代を過ごした鄭成功は、母マツから中国語をはじめとする英才教育を受けます。そして日本の武士道や剣術なども受け、武人としての素養を高めました。
中国の民衆から「国性爺」と呼ばれ、尊敬された鄭成功
20歳の頃から平戸を拠点としていた父の鄭芝龍は、機知に富んだ非凡な人材で、平戸藩主からも可愛がられたこともあって、大きな規模の海商集団の頭領となりました。東アジアでの活躍が目覚しかった鄭芝龍は、明朝からの誘いを受けて仕官すると、総戎大将軍に任命されます。その後、7歳になった鄭成功は父の招きで現在の中国福建省南安に渡りました。南安では南安県学の学生となり、儒教を修めます。成人した鄭成功は、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱」と「成功」の名を頂きます。皇帝から姓を賜った鄭成功に対して民衆は彼を「国姓爺」と呼びました。しかし当時の中国大陸の情勢は、異民族の王朝「清」が勢力を拡大しており漢民族の王朝「明」は劣勢に立たされていました。清との戦いで父と母は命を落としてしまいますが、鄭成功は「抗清復明」の旗印を掲げて粘り強く戦います。しかし南京の戦いに敗北すると、勢力の挽回をはかって台湾に移ります。当時の台湾はオランダの植民地でしたが、鄭成功が武力でオランダの勢力を排除し、自身の政府を打ち立てます。明復興のために、鄭成功は台湾の国力の増大に心血を注ぎますが病にかかり、1662年に39歳の若さで亡くなりました。
鄭成功が日本・中国・台湾友好の架け橋に
明朝の復興という志を遂げられず亡くなった鄭成功でしたが、台湾・中国では民族的英雄であり、特に台湾では外国の支配から台湾を解放した業績が称えられ、台湾の「三人の国神・国民の父」の一人となっています。日本では近松門左衛門が「国性爺合戦」のモデルとして鄭成功を描き、浄瑠璃や歌舞伎として上演されています。近年では昭和37年に台湾の台南にある「明延平郡王祠」から鄭成功の分霊を受け、川内の浦を望む高台の地に「鄭成功廟」を創建し祀りました。平成25年に鄭成功の生家跡に鄭成功記念館をオープンし、平成28年には鄭成功記念館の入り口に山門を建てました。山門の除幕式には鄭成功ゆかりの台湾の台南市から約400人が訪れ完成を祝いました。また毎年7月14日に「鄭成功まつり」が開催されています。国指定の重要無形文化財である「平戸のジャンガラ」が奉納されたりたくさんの屋台が出店したりするなどの盛大な祭りで、国内だけでなく、中国・台湾からも多くの人が訪れます。かつて東アジアを舞台に活躍した鄭成功。現在その活躍を称える人々の活動は、日本・中国・台湾の友好の架け橋となっています。
歴史に埋もれた魅力がある港町・川内
川内の名産に蒲鉾があります。近海で取れた魚をすり潰して「はんぺん」を作ったのが始まりとされ100年以上の歴史があるといわれています。平戸から長崎に海外貿易の拠点が移り、江戸幕府の鎖国政策が完成した江戸時代中期になると、川内の町は国内航路の寄港地、そして漁村として発展していきました。現在の川内の町を歩いてみると、蒲鉾店や木質感の高い平入りの建物群があり、港町・漁村として栄えた町並みを偲ぶことができます。しかし、川内の町には鄭成功が生きていた頃の国際色あふれる面影は残っていません。近年の鄭成功ゆかりの場所を再興する動きは、川内の町を魅力的にさせ、日本・中国・台湾の交流を促進することにつながります。川内の町が辿った長い歴史にはたくさんの魅力が埋もれているのです。皆さんも川内の町を訪れてみて、鄭成功が幼少時代を過ごした川内の魅力を発見してみてはいかがでしょうか。
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