炭鉱王・伊藤伝右衛門の生きた時代と明治の底なしの明るさが感じ取れる贅をつくした豪邸、伝右衛門と白蓮の生活が偲ばれる旧伊藤伝右衛門邸

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伊藤伝六

 

伊藤伝右衛門や柳原白蓮を偲ぶ文化遺産

福岡県飯塚市にある旧伊藤伝右衛門邸は、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門の本邸だった近代和風の住宅です。父伝六とともに石炭の採掘を始め、伊藤伝右衛門が実業家として成功した明治時代後期から亡くなる昭和時代初期までに増築をくり返した旧伊藤伝右衛門邸は、当時の先進的な建築技術や繊細で優美な装飾を随所に施した貴重な文化遺産です。現在飯塚市が所有し、一般公開している旧伊藤伝右衛門邸は、邸宅の主であった伊藤伝右衛門と伝右衛門の妻で歌人としても有名な柳原白蓮についても展示されており、二人が旧伊藤伝右衛門邸で過ごした頃の様子を偲ぶことができます。今回は伊藤伝右衛門と父伝六、そして妻の柳原白蓮に触れながら、旧伊藤伝右衛門邸を魅力を探っていきます。

応接室

石炭の採掘に明け暮れた父伝六

畳廊下

伊藤伝右衛門は、桜田門外の変が起きた幕末の1960年に現在の飯塚市幸袋にあたる穂波郡大谷村幸袋の父伊藤伝六の長男として生まれました。父の伝六は本業の魚の行商をするかたわら、現在の警察官や消防士の役割を担っていた「目明かし」をしていました。「目明かし」は大勢の子分を養わなければならないため、伝右衛門の家庭は貧しく、幼い伝右衛門は家業の手伝いで寺子屋にも行けませんでした。明治になると政府は、出願すれば誰でも採掘できる「鉱山解放令」を出したため、石炭の埋蔵量の多い筑豊には、石炭を求めて全国から大勢の人々が集まりました。父親の伝六も飯塚の山野を歩き石炭の露頭を探してまわる「狸彫り」と呼ばれる手法で採掘に明け暮れました。

 

事業が軌道に乗り、士族の娘と結婚した伊藤伝右衛門

伊藤伝六は、目明かしをしていたこともあって旧福岡藩士との人脈があり、地域の情報に精通していました。また荒くれ坑夫をまとめ上げるなど多くの人望がありました。若き伝右衛門も父の伝六とともに飯塚の山野をくまなく歩き、過酷な石炭採掘の現場に立つことで、経験とカンを身につけました。伊藤伝右衛門が炭鉱労働者からの叩き上げの経営者といわれる由縁はこういったところにあるのでしょう。やがて炭坑の経営が軌道に乗りはじめ、伊藤伝六・伝右衛門父子は、貧困生活から抜け出て、財をなすようになりました。そして明治21年には伊藤伝右衛門は旧士族である辻徳八の娘・ハルと結婚します。当時、平民の身分であった伊藤伝右衛門が、士族の娘と結婚することは社会的地位をアップさせることにつながりました。こうして社会的信用度を向上させた伊藤伝右衛門は事業を拡大させていき、明治30年代後半から本拠である幸袋の自宅が立派な豪邸へと変わっていきました。これが現在の旧伊藤伝右衛門邸になります。

 

政界・財界に大きな影響力を持ち、柳原白蓮と結婚した伊藤伝右衛門

明治32年に父伝六が亡くなり、家督を継いだ伊藤伝右衛門は、本業の炭鉱業への資本投下を積極的に行います。そして炭坑諸機械を製造する幸袋工作所の社長に就任したり、嘉穂銀行や第十七銀行の取締役になるなど実業家として幅広く活躍し、また衆議院議員を2期務めるなど政界にも大きな影響を与えました。ビジネスや社会的側面では幅広く成功を収めた伊藤伝右衛門でしたが、明治43年には、苦楽をともにしてきた妻ハルが45歳で亡くなります。妻を亡くした伊藤伝右衛門は、翌年の明治44年に華族であった柳原義光の妹である柳原燁子(後の白蓮)と再婚します。当時の伝右衛門52歳、一方の白蓮は27歳と年齢差が25歳もあったこの結婚は、白蓮の兄である柳原義光の貴族院議員の選挙資金を伝右衛門に援助してほしいという思い、名門華族と縁を結びたいという伝右衛門の思いが合致して成立しました。

白蓮を迎え入れるために増築した2階

柳原白蓮が過ごした旧伊藤伝右衛門邸

政略結婚ともいえるような伝右衛門と白蓮の結婚でしたが、旧伊藤伝右衛門邸では、白蓮を迎え入れるために様々な増改築が行われました。部屋数25という広大な家屋に増築し、京都から宮大工を呼んで細やかな美の技法に満ちた部屋にしました。そして当時、九州では普及していなかった水洗トイレを、大阪から材料を取り寄せ、職人を呼び寄せることで設置し、2階を増築して白蓮の専用部屋にしました。洋間にはイタリアから輸入した大理石を使ったマントルピース、応接間には英国製ステンドグラスを用いるなど、白蓮との結婚を契機に邸宅のアップグレードがはかられました。伝右衛門との結婚で白蓮は物質的には満たされたのかもしれませんが、精神的には満たされない日々が続きました。白蓮はこの邸宅で10年過ごしましたが、女癖の悪い伝右衛門の性分は直ることはなく、愛人を何人もつくり、派手な女性遍歴を持ちました。白蓮は複雑な気持ちを歌に込め、出版した最初の歌集が注目を浴びました。白蓮は新聞記者の宮崎龍介と不倫し、大正10年10月に失踪します。その後新聞紙で公開絶縁宣言が掲載され、白蓮事件と呼ばれる騒動にまで発展しました。

旧伊藤伝右衛門邸の主庭

度重なる増改築で、より文化的価値の高い邸宅へと変わっていった旧伊藤伝右衛門邸

白蓮が失踪した翌月の大正10年11月には伝右衛門と白蓮の離婚が成立し、伝右衛門が一族に「末代まで一言の弁明も無用」と言渡し、一連の白蓮事件は決着します。離婚後も伝右衛門は精力的に実業家としての活動を続け、伊藤伝右衛門邸も昭和2年に焼失した福岡の別邸から移築した長屋門を加えるなど増改築が引き続き行われ、より文化的価値の高い邸宅へと変わっていきました。昭和22年に伊藤伝右衛門が亡くなると、主を失った邸宅は売却され、取り壊す案も出ましたが、旧伊藤伝右衛門邸を遺そうとする市民活動が盛んになり、飯塚市の保有で、文化財として保護することが決まりました。現在では一般公開となっており、石炭産業が隆盛だった筑豊を偲ばせる文化遺産として、多くの人々が訪れています。

伊藤伝右衛門を感じる邸宅

旧伊藤伝右衛門邸は、和洋折衷の調和のとれた美しさがあり、増改築をくり返した建物は、技術や美の粋を極めています。南棟、北棟、南北を結ぶ繋棟、西棟の4棟と土蔵3棟で構成し、趣のあるレトロチックな和風建築を歩いて廻る楽しさがあります。広場、中庭、主庭の3つ庭があり、敷地の約半分を占める主庭は、石造の太鼓橋、2基の石造噴水などを配した風情を楽しむ本格的な回遊式庭園となっています。贅を極めた邸宅を見て思い浮かばれるのは、家主であった伊藤伝右衛門の生きた明治という時代の底の抜けた明るさであり、人間の為す行為というものを、大きく包み込むおおらかさです。過酷な炭鉱で働く炭鉱夫たちは今を存分に生きたでしょうし、彼らのボスであった伝右衛門は今現在を大切にしたのではないかと感じます。皆さんも旧伊藤伝右衛門邸を訪れてみて、その素晴らしさを感じとってみてはいかがでしょうか。

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