九州山地の雄大な山々に囲まれた溶岩台地に立地する難攻不落の城、栄枯盛衰を繰り返し壮大な石垣の連なりが往時の姿を偲ばせる岡城跡

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中川氏

阿蘇の溶岩台地という天然の要害の上に建つ岡城

大分県竹田市にある岡城は、阿蘇山系の溶岩台地を流れる稲葉川と白滝川によって侵食されて出来た深い渓谷が天然の要害となっている難攻不落の山城です。四方を絶壁に囲まれ、東西2500m、南北362m、総面積23万4000平方メートルにもおよぶ巨大な山城は、平安末期に築城されたと言われており、この地域を支配した武門が栄枯盛衰を繰り返しました。時代が流れて明治維新によって武士の世が終わり、明治政府の廃城令で、岡城の建造物はすべて取り壊され廃城となりました。後に瀧廉太郎が岡城跡を思い描きながら名曲「荒城の月」を作曲しますが、この廃城跡を訪れると、かつての栄華が蘇るような風格が感じられます。今回は、阿蘇の溶岩台地という大自然が作った天然の要害に立地し、往時の栄華が偲ばれる岡城跡の魅力について迫っていきます。

近戸門跡

武士の栄誉をかけて、戦が繰り広げられた岡城

岡城は1185年に、大野郡緒方荘の武将であった緒方三郎惟栄が、源頼朝と不仲になった源義経を迎え入れるために築城したと伝えられています。しかし、豊後に向かった義経の大軍を乗せた船は、暴風雨に遭い難破したため、岡城にたどり着くことはありませんでした。南北朝時代になると、後醍醐天皇の命で大友一族の志賀氏が岡城に入ります。志賀氏は岡城を改修しながら、北朝側の勢力と戦いました。それから時代が進み、戦国時代の1586年には、耳川の戦いで敗戦し衰退していた大友氏に、島津氏が攻めてきます。大友氏の家臣であった志賀親次は、攻め寄せる島津の大軍に対し、少ない手勢で岡城を守り抜きます。豊臣氏の援軍が豊後に上陸すると形勢が逆転し、島津勢に奪われていた大友方の諸城を奪還しました。豊臣秀吉からは、見事な采配をして岡城を守った志賀親次を「楠木正成の再来」と絶賛されました。しかし文禄・慶長の役では、大友氏は敵前逃亡とみなされる失策を犯してしまい、豊臣秀吉から改易の処分が下されます。この時家臣であった志賀親次も所領を失い岡城を去りました。

三ノ丸から二ノ丸にかけて続く、絶壁に築かれた石垣

江戸時代の経済・社会を見据えた岡城の大規模改修プロジェクト

志賀親次が岡城を去った翌年の1594年に中川秀成が入城します。この時から明治の廃藩置県にいたるまでの277年間は中川氏の居城となり、この時代に岡藩7万石の本拠地として岡城の大改修工事が施されます。深い谷底から高くそびえる断崖絶壁の上に当時最新の土木技術を駆使して近世城郭を形成し、大量の石垣が連なる壮大な岡城を建設しました。今日我々が目の当たりにする岡城跡は、中川氏の時代に大改修されたものが大部分を占めます。中川秀成は、城づくりの造詣が深い加藤清正の助言を受けながら、志賀氏時代の城域の西側にあった天神山を造成し本丸・二ノ丸・三ノ丸御殿・櫓を建設しました。そして城の西側を拡張し重臣屋敷群を建設します。またこれまでの大手門であった下原門に加え、西側に近戸門を作り、これを大手門に改めました。城下町も現在の竹田市中心市街地となる竹田町が整備されました。中川氏の行った城の大改修工事は、城の防御力を高める軍事目的がありましたが、戦国時代後期から急速に発達した大規模流通経済に対応すべく近代的な城、城下町を築く一大プロジェクトであったと言えます。先見の明をもって開発された岡城の城下町竹田は、経済・文化の要衝として江戸時代を通して栄えました。

壮大さと美しさを兼ね備えた岡城跡

現在、国指定史跡として見学ルートが整備されている岡城跡を歩いてみましょう。かつて岡藩の行政や裁判所の機能があった総役所跡には、駐車場が整備されており、岡城見学の入口となっています。総役所から歩いていくと、阿蘇山の大噴火でできた凝灰岩の岩壁を見ることができます。そして不思議な形状のかまぼこ石を横目に見ながら坂道を登っていくと、巨大な石垣で形成されている大手門跡があります。大手門からは城内になりますが、大きく分けると政務を行っていた西の丸周辺と藩主が住み来客者の接待が行われていた本丸・二ノ丸・三ノ丸周辺になります。岡城の広大な敷地と、大量の石垣が連なっている様子には圧倒されますが、特に三ノ丸北側から二ノ丸の主郭部に続く石垣は、断崖絶壁の谷底から上まで石垣で取り囲んでおり、壮大さと美しさを兼ね備えています。また、阿蘇山や九重連山が見えるビュースポットもあり、あらためて九州山地の雄大な山々に囲まれた場所であることを実感させられます。

二ノ丸跡にある瀧廉太郎像

瀧廉太郎が「荒城の月」を作曲

豊臣政権時に岡城に入った中川氏は、後の関ケ原の戦いで東軍に属していたため本領を安堵され、江戸時代を通して岡城に君臨します。しかし明治の廃藩置県で、277年もの長きにわたる中川氏の支配は終わりを告げ、明治7年には城の建造物は取り壊され廃城となります。それから約27年後の明治34年に瀧廉太郎作曲の名曲「荒城の月」が発表されます。この曲の背景には、明治政府の廃城令が出されたことにより、日本各地に荒れ果てた城跡が増加した当時の社会現象がありました。江戸時代の武士の世を知っている人が多く存命していた頃ですから、多くの人々の共感を得た曲だったのではないでしょうか。明治12年に旧日出藩士の名家に生まれた瀧廉太郎は、父の転勤で12歳から14歳までを竹田で過ごしています。「荒城の月」の作曲にあたり、瀧廉太郎が思い浮かんだ情景は子供の頃に遊んでいた岡城跡だといわれており、昭和25年に岡城跡二の丸に瀧廉太郎の銅像が立てられました。

家臣の屋敷から西の丸へ行く通路

まわりの大自然と大量の石垣が残る岡城跡を味わいましょう

二つの川に挟まれた阿蘇溶岩台地という天然の要害に建つ岡城。岡藩の5代藩主の中川久通は、岡城の北側にある絶壁に弦長3mもの三日月を彫らせ、月のない夜でも灯りを灯し、月見の宴を楽しんだといわれています。安土桃山時代から明治維新までの277年間、岡城の主であった中川氏は、大分県南西部に豊富に広がる阿蘇凝結凝灰岩を有効に使いました。阿蘇山の噴火によって川に流れ込んできた火砕流が冷やされ、石になった凝灰岩は、加工しやすく石垣作りに向いています。切り出した石を川の水運を使うことによって大量の石を岡城の谷底まで持ってくることが可能でした。中川氏は、岡城を壮大な総石垣造りの建築物へ大改修することに成功し、江戸時代の泰平の世を謳歌しました。岡城跡を訪れると、かつての城の様子が想像できるところが随所にあり、瀧廉太郎の「荒城の月」の情景とダブらせるものがたくさんあります。みなさんも岡城を訪れてみて、九州山地に囲まれた大自然を満喫しながら、往事の岡城の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

石垣に生えた木の切株

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