北部九州の情勢を察知しやすい有利な脊振山麓に発展した環濠集落、稲作がもたらした弥生文化と戦乱の世を乗り越えて巨大な内郭を形成した吉野ヶ里遺跡

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佐賀県

 

年間50万人もの人が訪れ、学術的にも価値が高い吉野ヶ里遺跡

佐賀県神埼市と吉野ヶ里町にまたがる吉野ヶ里遺跡は、広さが約59haもある日本最大の遺跡です。吉野ヶ里遺跡は学術的に価値の高い弥生時代の遺跡で、年間50万人にものぼる来園者が訪れています。これまでの調査により、弥生時代前期初頭には吉野ヶ里遺跡のある丘陵部に小規模な環濠集落が形成されたと推定され、弥生時代後期には40haを越える大規模な環濠集落に発展したことがわかりました。現在、復元整備されているのは、3世紀頃の弥生時代後期後半の遺構を対象としており、大規模な外環濠と北内郭・南内郭を備えた吉野ヶ里の最盛期の姿を見せています。今回は吉野ヶ里遺跡について触れ、その歴史や魅力について迫っていきます。

吉野ヶ里遺跡の濠

ムラから巨大なクニに発展したいった吉野ヶ里の集落

吉野ヶ里遺跡は、現在の佐賀県と福岡県の県境にそびえる脊振山地南麓にある吉野ヶ里丘陵一帯に展開しています。弥生時代初期には人の集まる集落であるムラが散在していましたが、しだいにムラ同士の争いが盛んになっていき、年代を経るごとに自衛のための堀や土塁、柵などが強固で大規模なものになっていきました。土地や食料を巡る血みどろの抗争を繰り返しながら、やがて一つの大きな勢力に集約していき、吉野ヶ里のムラは巨大なクニに発展しました。博多湾や筑紫・佐賀平野を俯瞰できる背振山は、のろしなどによって北部九州の情報を察知しやすい環境にあったと考えれ、その麓にあった吉野ヶ里のクニはその情報を素早く得ることにおいて大きなポテンシャルがあったのではないかと考えれます。勢力を拡大し弥生時代後期に最も繁栄した吉野ヶ里のクニでしたが、やがて古墳時代になると頻発していたクニ同士の抗争も収まるようになり、防御性のある環濠集落に住む必要がなくなっていきました。人々は丘陵地の吉野ヶ里を離れ、稲作の耕作がしやすい低地に移住するようになり、吉野ヶ里の環濠集落は消滅していきました。こうして弥生時代に巨大な環濠集落であった場所は、後の世になると土に埋もれた遺跡となってしまいました。

 

吉野ヶ里遺跡の発見と吉野ヶ里フィーバー

近年に入ってからは大正14年に、郷土史家や教育者たちが編纂した「古代東肥前の研究」の中で初めて吉野ヶ里遺跡が報告されました。その後も学会誌などに取り上げられ、吉野ヶ里遺跡の重要性を指摘する内容も数多くありました。そして昭和57年、吉野ヶ里遺跡一帯が工業用地になることが決まったため、予定地の事前調査が行われました。その結果80haにも及ぶ地区に濃密な遺構があることがわかり、昭和61年から発掘調査が始められるようになります。そして平成元年2月23日にはNHKのニュースで大規模環濠集落が佐賀県で発見されたと報道され、全国に吉野ヶ里遺跡の存在が知られるようになりました。マスコミ各社は吉野ヶ里遺跡と魏志倭人伝に記された邪馬台国との関連性を積極的に報道したことから「吉野ヶ里フィーバー」と呼ばれる社会現象を引き起こし、全国から吉野ヶ里遺跡を訪れる人が急増しました。

大量に出土されている甕棺

国と県が主体となって吉野ヶ里歴史公園が整備される

大規模環濠集落の遺構発見とそれに伴う吉野ヶ里フィーバーで、吉野ヶ里の工業用地の計画は消滅します。平成2年に国史跡、平成3年には特別史跡に指定され、平成4年には国営奈良明日香歴史公園に次ぐ2番目の歴史公園として整備されることが閣議決定されました。当時の建設省と佐賀県が主体となって建設を進め、平成13年に開園した国営吉野ヶ里歴史公園は、発掘調査で確認された建造物や環濠などの復元を行い、弥生時代後期の最も繁栄した頃の吉野ヶ里を再現しています。吉野ヶ里のクニの中心部であった北内郭と南内郭。それらを取り囲むように存在するムラと市、そして信仰の対象であった北墳丘墓をはじめとする墓地などがあり、とても見応えのある歴史公園となっています。

主祭殿の内部

歴史公園内を歩けば歩くほど、規模と歴史を実感する吉野ヶ里遺跡

王とその側近の住居であった南内郭は、二重の環濠と土塁で防御を強化しており、各所に物見櫓を配置するなど、後の世に武家が造った城郭の基本的な構造がすでにあったことに驚かされます。北内郭は祭祀と政治を行う場所であり、巨大な主祭殿を中心に祭祀のための建物が立ち並んでいます。この北内郭の北方延長線上には祖先の墓である北墳丘墓があり、司祭者は北墳丘墓に向けて祈りを捧げました。王たちはクニの重要事項は主祭殿で話し合い、まとまらないときは、信託を受けてクニの運営の指針としました。歴代の王の墓と考えられている北墳丘墓にある甕棺からは、ガラスの管玉や銅剣など高貴な身分を示す品々が出土しています。また北内郭から見て北墳丘墓の手前一帯には、弥生時代中期の墓地が残されていて、素焼きの土器でできた2000基もの甕棺が発見されました。吉野ヶ里歴史公園の園内を歩けば歩くほど、吉野ヶ里の歴史とその規模の大きさが実感できます。

 

多くの人々から注目されてきた吉野ヶ里遺跡

弥生時代後期は耕作地や穀物を巡る戦乱の時代であり、その戦乱を象徴する環濠集落は九州をはじめとする西日本各地にいくつも出土しています。奈良県には、弥生時代から続き今でも人が住んでいる環濠集落があるなど、環濠集落自体は決して珍しいものではありません。そんな西日本に散在している環濠集落の一つに過ぎない吉野ヶ里遺跡がこんなにも多くの人々から注目されてきたのはこれまで発見された弥生時代の遺跡の中で日本最大級の規模があることと、弥生時代の環濠集落の発展がわかる学術的な価値が高いところにあります。これほど多くの住居、祭祀場、墓地などは吉野ヶ里遺跡以外に見つかったところはありませんし、約700年も続く長い弥生時代の全ての時期の遺構が発見されています。これは日本に稲作が伝わり、ムラからクニへと発展していった過程を知る上で重要な手がかりとなります。また、邪馬台国論争についても、吉野ヶ里が邪馬台国であった証拠は見つかっていませんが、邪馬台国の有力候補であることは間違いありません。皆さんも吉野ヶ里遺跡を訪れてみて、古代の環濠集落の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

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