黒田官兵衛が築き壮大な野望を抱いた居城、歴史の積み重ねが感じられ現在は多くの観光客が訪れる中津城

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中津城

日本三大水城の一つ中津城

大分県中津市にある中津城は、安土桃山時代に豊臣秀吉の軍師を務めた黒田官兵衛によって築城された城です。黒田官兵衛が築城して以来明治維新まで、黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏と城主が変わりました。山国川河口の周防灘に面した中津城は、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。黒田氏時代の中津城はとてもコンパクトな造りをしており、黒田官兵衛の野望を実現するための、強い意思を垣間見るような設計となっています。今回は黒田官兵衛が晩年の野望に挑んだ時代に居城としていた中津城に触れ、黒田氏以降の中津城の歴史について触れていきます。

中津城天守から中津川河口を望む

 

黒田官兵衛が、築いた中津城と中津城下町

1587年に豊臣秀吉から豊前12万石を封ぜられた黒田官兵衛は、翌年の1588年に山国川の河口付近にあった犬丸城を大改修する形で近世城郭を備えた中津城の築城にとりかかります。石垣には当時のトップレベルの技術であった「穴太積」が採用されるなど、堅牢な城にするための工夫が見られます。また、城下町中津を発展させるため姫路や京都、博多などから商人を招き、町を抜本的に開発しました。

黒田氏時代に造られた堅固な石垣

黒田氏、中津を拠点に繁栄の礎を築く

当時黒田氏が行った区割りは、現在の中津市の区画とさほど変わってなく、この時代に中津の町の礎が出来たと言っても過言ではありません。中津城付近は、当時日本の海上交通の大動脈であった瀬戸内海航路を行き来する船の寄港地であり、要所でもありました。黒田官兵衛は豊臣政権のある畿内からの情報をいち早くキャッチするために、この瀬戸内航路を往来する早船が寄港できる港のそばに城を築きました。こうして黒田氏は九州の諸大名よりも先駆けて畿内の情報を得ることに成功し、後の黒田家の躍進に繋がりました。

 

黒田官兵衛、中津城を拠点に軍を進める

黒田官兵衛は、1589年に息子の黒田長政に家督を譲ります。家督を譲った後も持ち前の知略を生かし、豊臣政権を支えていきます。そして豊臣秀吉が亡くなると黒田氏は徳川家康に接近していきます。1600年に徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原の戦いでは、黒田家の当主であった黒田長政は、黒田家の主力部隊を率いて徳川家康のもとに参陣します。この時黒田官兵衛は隠居の身で中津城に残りましたが、この天下を二分する混沌とした情勢に乗じて自らの野望を実現しようと軍を進めます。

天守から中津市街地を眺める

黒田官兵衛が抱いた壮大な野望

正規軍は徳川家康のもとに参陣していたため、黒田官兵衛は浪人を銭で集め、急ごしらえの軍を編成し、石田方の大名を撃破していきます。黒田官兵衛は、石田方の大名の領土を奪い、九州で勢力を拡大した後は、天下が混乱している隙を突いて畿内に攻め登ろうという壮大な計画を描いていました。それはあたかも、軍師として数々の武勲を立ててきた黒田官兵衛の人生の総決算とも言うべき行動でした。黒田官兵衛は、中津城の早船から伝わる天下の情勢に逐次耳を傾け、軍を展開していきました。しかし長い期間にわたって混乱すると思われていた徳川家康と石田三成の争いは、たった1日の関ヶ原の戦いで終わり、黒田官兵衛の壮大な野望は、あっけなく潰えることになりました。

細川氏が中津城に大改修を施す 

黒田長政は、関ヶ原の戦いで軍功を挙げたことが認められ、石高を52万石に加増した上で、筑前に転封となりました。変わって豊前32万石を与えられた細川氏が中津城主となりました。細川氏は、黒田氏の築いたコンパクトな中津城に大改修を施し、櫓22基、門が8棟ある大規模な城に変貌しました。その後細川氏は、領地支配を強化する目的で関門海峡が近く、海陸の交通の拠点であった小倉城に本拠地を移したため、中津城は細川藩の支城の役割を担うようになりました。

中津城の大鞞櫓 |
 

江戸時代中期から後期にかけて中津を領有した奥平氏

1632年に細川氏が熊本へ転封となると、譜代大名の小笠原氏が8万石の大名として中津城に入城します。その後、後継者問題が発生した小笠原氏が、1717年に播磨へ転封となると、同じく譜代大名の奥平氏が10万石で入封します。明治維新に至るまで奥平氏は、9代にわたって中津城の主となります。奥平氏は、蘭学や人材育成に尽力し、「解体新書」で有名な中津藩の藩医である前野良沢が活躍しました。そして明治を迎えると、旧中津藩士で自由民権運動にも参加した増田宗太郎や中津藩士の子で慶應義塾を創設した福沢諭吉などの人材を輩出しました。

中津城の模擬天守

奥平氏伝来の品が展示されている模擬天守

明治の廃藩置県では中津城内のほとんどの建造物が取り壊され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続しました。しかしその御殿も明治10年の西南戦争で消失してしまいます。それから長い年月をへて昭和39年に旧藩主の奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も集めて模擬天守が、建造されました。模擬天守は、中津市街地を展望できるほか、徳川家康から当時の徳川家の家臣であった奥平忠昌が拝領した「白鳥鞘の鎗」や長篠の戦いで使用された法螺貝など奥平氏伝来の貴重な品が展示されており、福沢諭吉旧居と並ぶ市内の観光名所となっています。

歴史の積み重ねを感じる中津城

中津城は、安土桃山時代に瀬戸内海航路を航行する船が寄港しやすい河口デルタに築城されました。そのために堀や天然の要害となっている河川は、潮の干満で水位が変わります。そして黒田官兵衛の時代に出来た石垣の上に、戦後の高度成長期に鉄筋コンクリートで造られた模擬天守が、不思議と堀と石垣の風景に馴染んでいることに驚きを隠せません。黒田官兵衛が情報戦に特化して築かれた城は、後世に様々な改修が加えられ、時代の変遷が感じられる味わい深いものになっています。歴史的建造物にみられる素晴らしさは、当時の姿を今に伝えるところにありますが、長い歴史の積み重ねを今に訴えるものがあれば更に輝きを増すものになります。みなさんも中津城を訪れてみて、城の素晴らしさを感じ取ってみてはいかがでしょうか。

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