長崎港の航海の安全を見守ってきた伊王島灯台

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伊王島
伊王島灯台の空撮動画

長崎港の入り口で、船舶の航行の安全に寄与した伊王島灯台

長崎市伊王島町にある伊王島灯台は、長崎港の入り口にあたる伊王島の北端にあります。明治維新の2年後の明治3年に初代の灯台が建設されて以来、長崎港を航行する船の道しるべとして、海上交通の安全に大きく寄与してきました。伊王島灯台のある伊王島の北端は、長崎港を出入りする船舶を一望のもとに収めることができ、晴れた日は遠く五島列島までの海域を見渡せる高台になっている土地です。展望の良さから、長崎と異国の貿易が盛んだった江戸時代は、不審な外国船を砲撃するためのお台場が築かれました。欧米列強からの圧力で建設された経緯を持つ伊王島灯台は、太平洋戦争で長崎市に投下された原子爆弾の被害を受けたり、灯台のある伊王島周辺の炭鉱の盛衰があったりなど、時代の変遷を受けながらも、長崎港の発展に貢献し続けてきました。今回は、伊王島灯台について調べてみました。

伊王島展望台から伊王島灯台を見る

古くから諸外国との交流があった伊王島

灯台のある伊王島は、古くから海上交通が盛んで、遣唐使の時代から、諸外国と広く交流があったといわれています。江戸時代には、長崎警備を担当した佐賀藩が、伊王島に4つの台場を築き不審外国船に目を光らせました。そのうちの1つ真鼻台場は、伊王島灯台の至近距離にあり、台場の石垣の一部は、灯台建設に石材として転用されました。また、江戸時代の島原の乱以降、主に天草方面から隠れキリシタンが避難してきたこともあって、伊王島の人口の半数以上はカトリック教徒です。伊王島の隣の沖ノ島には白亜のゴシック様式が美しく、国の登録有形文化財になっているカトリック馬込教会があります。

40㎞先まで灯りがみえていたという四等閃光レンズ

欧米の圧力によって建設された伊王島灯台

伊王島灯台は、1866年に江戸幕府が自国の船舶の安全航行を要求したイギリス、アメリカ、フランス、オランダの欧米4カ国と結んだ改税約書(江戸条約)に基づいて国内に建てた8灯台の一つです。伊王島の灯台建設は、特に貿易で長崎との関わりが深かったオランダの強い要望があったとされ、別名条約灯台ともいわれています。その後、伊王島灯台は、明治政府の雇い外国人技師であったイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、明治3年に完成し仮点灯を始め、翌年に日本最初の鉄造灯台として本点灯されました。

旧吏員退息所(現在は伊王島灯台記念館)

日本最古の無筋コンクリート造りの旧吏員退息所

明治10年には、灯台と同じくヘンリー・ブラントンによって設計され、伊王島の大工、大渡伊勢吉が棟梁として建てられた官吏退息所が完成しました。灯台が無人化する昭和46年まで、灯台職員の宿舎として使用されたこの建物は、昭和62年に明治の完成当時の姿に復元工事を施し、昭和63年に伊王島灯台記念館として開館しました。平屋建て桟瓦葺きで、日本最古の無筋コンクリート造の壁を特徴とし、記念館正面に7つのベランダを配した洋風建築です。各部屋にマントルピースを配し、部屋数、間取り等が建築学上大変貴重な文化遺産となっています。館内には、かつて使用していた道具や灯台文化の資料を保存、展示しています。

旧吏員退息所から伊王島灯台に至る道

原爆の被害を受けた初代灯台

伊王島灯台が出来た明治初期の長崎港は、貿易がメインでしたが、国の富国強兵・殖産産業政策の影響により、長崎港周辺は造船業が盛んになっていきます。そして日清・日露戦争を経て、しだいに軍需目的の生産に大きなウェイトを占めるようになります。昭和15年には三菱長崎造船所で戦艦武蔵が建造されるなど、数多くの軍艦を長崎港から送り出し、伊王島灯台からもその様子を見守ってきました。そんな中、太平洋戦争末期の昭和20年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下されます。原爆が炸裂した爆心地から11.5kmの距離のある伊王島灯台は、爆風によって、大きな被害を受けます。原爆を開発したアメリカの研究者は、長崎市に投下された原爆と同型のものを人類初の核実験に使い、爆心地から約16㎞離れた場所で核爆発を見たそうです。伊王島灯台はそれよりも4.5㎞短い距離でした。そして長崎市街地は、三方を山に囲まれているため、爆風の抜け口が伊王島灯台付近に集中してしまったことも考えられます。被害を受けた初代灯台は昭和29年に取り壊され、四角形の鉄筋コンクリート造の2代目灯台が建設されます。

炭鉱があった頃の伊王島(2代目灯台の画像あり)

炭鉱の町から灯台を中心に据えた観光振興へ

伊王島周辺の高島や端島(軍艦島)では、明治に入ってから本格的な石炭の採掘が行われるようになり、昭和に入ってからは伊王島でも、炭鉱が開発されました。炭鉱が発展していくにつれ灯台周辺でも、石炭運搬船や旅客船の往来が頻繁になります。石炭の採掘は、戦後の高度経済成長期に最盛期を迎え、昭和37年の伊王島の人口は7千人を越えましたが、国のエネルギー政策の転換に伴い昭和47年に閉山してしました。閉山以後は、急激に島の人口は減りますが、当時の伊王島町(現在は長崎市に編入)は、「灯台を中心に据えた観光立町」を掲げ、灯台周辺を公園として整備するなど観光に力を注ぎます。平成元年にはリゾートホテルのルネサンス長崎伊王島(現在のアイランドナガサキ)が、町と民間企業の第三セクターで開業します。そして平成23年には、長崎市の香焼町と伊王島の隣の沖ノ島を結ぶ伊王島大橋が開通し、長崎市中心部から自動車での移動が可能になりました。

風光明媚な伊王島灯台公園の動画

風光明媚な伊王島灯台へ行ってみましょう

平成15年には、初代の六角形フォルムに改築した3代目の灯台が完成します。原爆の被害に遭いながらも、ドーム型の天井部分は、明治の創建当時のままです。最近では、俳優高倉健さんの遺作となった「あなたへ」のロケ地にもなった伊王島灯台。駐車場のある入り口から、灯台公園の海の青と空の青に導かれるような道を歩くと白亜の灯台に至り、周辺の海を見渡すと視界の良い日は水平線をみることができ、地球が丸いことを実感します。風光明媚な場所でもありますので、みなさんも足を運んで頂いて、絶景を楽しみ、長年にわたって航海の安全に貢献してきた伊王島灯台を見学してみてはいかがでしょうか。

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