菊池一族を祀る菊池神社
熊本県菊池市にある菊池神社は、南北朝時代に南朝側で戦った3代の菊池氏当主を主祭神とする菊池一族を祀った神社です。菊池氏は終始南朝側につき、天皇に忠誠を尽くしました。明治天皇はそのような菊池一族を称え、明治元年に肥後藩に菊池氏を顕彰し、祭祀を行うように命じました。こうして明治3年に菊池氏の本拠地であった菊池城趾に菊池神社が創建されました。菊池氏は平安時代末期から室町時代末期にかけての約500年に及んで、菊池を拠点に活躍した豪族でした。今回は菊池氏の盛衰の歴史に焦点を当てながら、菊池神社に触れていきます。
源平合戦で平家側につくも、滅亡しなかった菊池氏
平安時代末期に藤原氏の流れをくむ藤原則隆が菊池に下向して以来、その末裔が菊池氏の歴史を築いていくようになります。菊池氏が肥後国で実力をたくわえていった2〜6代の時代は、奥州藤原氏が隆盛を誇った時代でした。6代隆直の時代に起こった源平合戦では、菊池氏も兵を送ります。隆直は以仁王の令旨により挙兵した源氏側に立ちましたが、後に安徳天皇を擁する平家側に立ちました。しかし平家は戦に敗れ、壇ノ浦で滅亡してしまいます。平家側に参陣した菊池氏は、存亡の危機に立たされましたが、強大な兵力とそれを支える豊かな経済力を備えていたこともあり、鎌倉幕府から攻め滅ぼされることもなく存続しました。
農業と水運の盛んな菊池川流域で、力をたくわえた菊池氏
菊池氏が本拠とする菊池川流域は、肥沃な土壌に恵まれた農業や水運の盛んな地域であり、古代山城の鞠智城や装飾古墳などに代表される優れた文化を培ってきた土地でもあります。菊池氏はこのようなポテンシャルのある地域で力をたくわえ、鎌倉幕府が侵攻を躊躇するほどの勢力に発展していきました。菊池神社には「蒙古襲来絵詞」という貴重な資料の写本があります。この蒙古襲来時に活躍したのが10代武房で、元の大軍に大打撃を与え、その武名を轟かせました。
命からがら逃げ帰り、菊池氏の家督を継いだ菊池武重
肥後国最大の豪族へと成長し、その歴史を積み重ねていった菊池一族。南北朝時代の動乱では一貫して尊皇の立場をとります。菊池神社の主祭神となった12代の武時は、後醍醐天皇の綸旨と錦旗を報じて、鎌倉幕府の九州探題へ攻め込みますが、ともに攻めた少弍、大友両氏の寝返りにあい、当主の武時をはじめ多数の一族郎党が悲惨な最期を遂げます。しかし武時の子で菊池神社の主祭神でもある武重は命からがら肥後に逃げ帰り、菊池一族の滅亡は免れました。その後鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇の建武の新政が行われます。武時の死去を受けて家督を継いだ武重は、後醍醐天皇から肥後守として正式に認められる形で恩賞を受けました。
菊池家憲「寄合衆内の事」を出し一族の結束をはかった菊池武重
南北朝時代は武家などのさまざまな勢力が、不穏な動きをする不安定な時代でした。後醍醐天皇から恩賞を受けたとはいえ、菊池氏も事態によっては危機的状況に陥りかねません。当主の菊池武重は、自らの血判入りの起請文である「寄合衆内談の事」を出します。寄合衆を定めて合議制とすることや宗家と庶家を明確にすることで、一族の結束をはかりました。菊池武重はこれを菊池家憲とし、一族に広く浸透することをはかりましたが、この精神は他の武士団にも影響を与え、明治政府の五か条の御誓文や明治憲法にも活かされたといわれています。
劣性に立たされながらも、「菊池千本槍」で奮戦した菊池氏
武家政権ではない建武の新政は、軍事集団であった武家の協力が必要でした。しかし源氏の棟梁である足利尊氏が建武の新政に反旗を翻すと、軍事面で劣性に立たされました。建武の新政が崩壊する一因となった箱根竹之下合戦では、足利尊氏の大軍に対し、菊池武重の軍勢は健闘します。短刀や竹の長柄に取り付けて槍とし、足利軍を蹴散らしました。これを世にいう「菊池千本槍」で、戦国時代に鉄砲が登場するまでの間に槍を使った集団戦法が重用されました。
九州各地の激戦を制し、九州支配を確立した菊池武光
菊池神社には、主祭神の15代当主の菊池武光の勇壮な騎馬像があります。後醍醐天皇の軍が足利の軍に敗れ、都を追われ吉野に南朝を開いた後も、後醍醐天皇の皇子の懐良親王を迎え、幕府を開いた足利方と戦いました。菊池武光は菊池城を本拠に、九州各地で激しい戦いを制していき、懐良親王と菊池武光による九州支配の体制を確立しました。そして大軍を率いて都へ進撃しましたが、足利幕府の軍勢に阻まれ失敗します。この都への進軍の失敗後、九州における菊池氏の影響力が衰退していきます。菊池氏は劣勢に立たされ、九州各地で防戦を強いられました。しかし1392年に南北朝が合体すると、動乱の時代は一応の落ち着きをみせるようになり、菊池氏にも平穏が訪れます。菊池氏は貿易や文教の面に力を注ぎ、当時の文化の一大中心地となりました。
菊池氏の精神文化が今も残る菊池神社
室町時代末期の戦国時代の戦乱で、約500年の菊池氏の歴史は途絶えます。そして明治維新を迎え武士の世が終わると、明治天皇の命により菊池一族を祀る菊池神社が創建されました。明治11年には別格官弊社としての社格が与えられ現在に至ります。菊池神社では毎年の例祭に御松囃子能が奉納されています。菊池武光の時代に入ってきたこの能は、懐良親王を菊池に迎え、年頭の祝儀として菊池城で催したのが始まりとされています。菊池神社の奉納能は当時の姿をかたくなに守りながら今に至る伝統芸能です。南北朝の動乱では天皇を奉じて数々の武勲を重ねた菊池氏。その精神文化は、この歴史ある御松囃子能にも大いに受け継がれているように感じます。皆さんも菊池神社を訪れてみて、中世に活躍した菊池氏に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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