たくさんの異教徒が埋葬されている仏教寺院の国際墓地
長崎県長崎市にある悟真寺の境内には、長崎で最も古い歴史を持つ国際墓地があります。仏教の寺有地に、キリスト教、イスラム教、道教などのたくさんの異教徒が埋葬されている墓地は、他にあまり例がないそうです。どうして仏教寺院の敷地内に、異教徒がたくさん埋葬されている墓地が造られたのでしょうか。悟真寺の国際墓地が形成された背景には、諸外国との交流が活発な長崎の歩んできた歴史があります。今回は、長崎の歴史に触れながら、長崎最古の仏教再興寺院である悟真寺と悟真寺の国際墓地について、迫っていきます。
長崎の仏教再興の寺
長崎港を望む長崎市の稲佐地区の一等地に広がる浄土宗悟真寺。南北朝時代にこの地を治めていた稲佐氏の館跡に悟真寺が建ったともいわれており、その頃使われていた古井戸「聖井戸」が今も残っています。そして安土桃山時代になり、かつて南北朝時代の長崎の中心地とも言える場所に、筑後善導寺の僧聖誉が、悟真寺を創建します。僧聖誉は神社仏閣が廃絶し、寺院が一つもなくなった長崎の地を嘆き、この地の仏教再興という目標を掲げて悟真寺の創建にとりかかります。
時代のうねりの中、創建された悟真寺
戦国時代後期、長崎を領有していたキリシタン大名大村純忠は、ポルトガルとの南蛮貿易を優位に進めるためにキリスト教を庇護する政策をとります。領民を強制的にキリスト教に改宗させる施策などを推し進めた結果、長崎は神社仏閣が荒廃し、キリスト教が隆盛しました。しかし、九州平定を果たした豊臣秀吉は、大村氏が、キリスト教のイエズス会に長崎の領地を寄進したことを知って驚き、キリスト教への政策を転換します。1587年に豊臣政権がバテレン追放令を出してからは、キリスト教の勢力はしだいに減退していきます。そして1597年、長崎の地で行われたキリスト教徒の処刑である26聖人殉教は、日本国内におけるキリスト教の布教・信仰の禁止を決定的にしました。こうした時代の大きなうねりのあった26聖人殉教の翌年に、仏教再興最初の寺、悟真寺が創建されました。
中国人が悟真寺創建をサポート
僧聖誉の悟真寺創建を強力にサポートしたのは、意外にも日本人ではなく、欧陽華宇と張吉泉の2人の唐の商人でした。なぜ中国人が長崎の寺の創建を後押ししたのでしょうか。キリスト教が禁教となると日本に居住する中国人は、自分達はキリスト教徒でないことを証明するために寺社の檀徒となることが必要になります。しかし当時の長崎は、キリスト教徒による神社仏閣の破壊で寺院は一つもなかったため、唐の商人たちは、僧聖誉の悟真寺創建を積極的に支援しました。こうして建立された悟真寺は、檀徒がほとんど中国人という状態で、その歴史をスタートしました。檀徒がほとんど中国人ということもあり、悟真寺は、日本の仏教の宗派である浄土宗の寺にも関わらず、本堂や山門は、唐寺風の造りです。
中国人墓地からしだいに国際墓地へ
江戸時代になると長崎は、幕府直轄領となります。幕府は悟真寺について「百閒四方の地を唐人墓地とする」という朱印を与え、境内にはたくさんの中国人墓地が造られました。現在も新しい墓地が造られていて、中国人墓の数は230基となるそうです。その後幕府の外交政策が確立し、長崎の出島でのオランダ貿易が 始まります。そうなると、オランダ商館で、死者が出た場合が問題になりました。長崎の町への上陸が許されないオランダ人は、亡くなった人の遺体を海中に投じる「水葬」を、せざるを得ない状況でした。出島オランダ商館長の陳情を受けた長崎奉行所は、悟真寺に口利きし、出島のオランダ人のためのオランダ人墓地を悟真寺境内に新たに造りました。さらに時代が進んで幕末になるとロシア艦隊が、長崎に来航するようになり、亡くなった船員を葬るためのロシア人墓地が作られました。その後も長崎に来て亡くなったポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人の墓地が、造られています。こうして悟真寺境内は、名の知れない多国籍の人々が葬られた国際墓地となりました。
ロシア艦隊の寄港で賑わう悟真寺界隈
江戸時代末期の1853年、ロシアの海軍中将プチャーチン率いるロシア艦隊が、開港と通商を求めて長崎に来航しました。出来ることならロシア人を長崎の中心地に迎え入れたくない幕府は、悟真寺のある稲佐を上陸地に指定して以降、稲佐地区は、ロシア艦隊の寄港地となります。ロシア艦隊への物資の補給や、ロシア兵の宿泊所や休憩場、遊郭、さらに悟真寺の南側には、ロシア兵の射的場もでき、日露戦争の始まる明治36年頃まで賑わいました。
日露戦争の戦死者が葬られている悟真寺の国際墓地
プチャーチン率いるロシア艦隊の水兵の墓が造られて以来、悟真寺は、航海中、または日本滞在中に死亡したロシア人や、日露戦争の日本海海戦での戦死者、ロシア革命で日本に亡命してきたロシア人の墓が造られ、約1000体が埋葬されていると言われています。ロシア正教の礼拝所まである悟真寺のロシア人墓地は、日本国内にあるロシア人墓地の中でも最大級の大きさです。
原子爆弾の被害を受けた悟真寺
明治になると長崎は造船が盛んになり、政府の富国強兵政策の下、軍艦などの軍需生産が増加しました。昭和の軍備拡張の時代になると、魚雷工場の拡張など兵器生産への傾斜を強めていきます。そして太平洋戦争末期の昭和20年8月9日、米軍は長崎市に原子爆弾を投下しました。海と山に挟まれた高台に建つ悟真寺は、原子爆弾の熱線と爆風をもろに受けます。唐風の趣があり、また文化財としても貴重だった本堂は原子爆弾により全壊してしまいました。唐風の山門は、被害はあったもののかろうじて残り、今に創建当時の面影を伝えています。
幾多の困難を受けながらも、守り抜いた国際墓地
令和に変わる直前の平成31年春に、悟真寺のロシア人墓地とオランダ人墓地を隔てる壁が修復されました。壁の完成式に出席したロシアのガルーシン駐日大使は、「(日・ロ・蘭)3ヵ国の建設的な関係寄与する行事になった」と述べ、同じく式に出席したオランダのヤコビ駐日大使は、「多くの日本人に墓地を訪ねてもらい3ヵ国の特別な歴史に思いをはせてほしい」と述べました。長崎は、古来から交流のある中国、近世になると、オランダ、ロシアとの特別な交流がありました。そして再び国際墓地を通じて結ばれました。墓前には国境はありません。1598年の創建以来、長崎の歴史と共に歩み、幾多の困難を甘んじて受けながらも、国際墓地を守り抜いてきた悟真寺の歴代住職には、感謝の念を抱かずにはいられません。悟真寺の国際墓地が、政治や宗教の垣根のない心の国際交流の場所として、広く人々の胸に刻まれることを願います。
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