樹齢250年の友情の梅の木
熊本県荒尾市にある宮崎兄弟の生家の梅は、例年2月上旬に咲き始め、2月中旬に見頃を迎えます。樹齢250年の古木ですが、現在でも毎年きれいな白い花を咲かせ、訪れる人の目を楽しませています。宮崎兄弟と孫文の交流を見守ってきたこの古い梅の木は、令和の世の現在、友情の梅の木として、親しまれています。宮崎兄弟は明治から大正時代にかけて、思想家・革命家として活躍しました。兄弟4人がお互いに影響しあって志を抱き、自由民権運動や中国の辛亥革命に影響を及ぼしました。今回は宮崎兄弟とその父政賢、そして現存している宮崎兄弟の生家について触れ、宮崎兄弟が築いた日中友好の歴史について考えてみましょう。
文武道場のような家で育った宮崎兄弟
宮崎兄弟の育った宮崎家は江戸時代、肥後藩の玉名郡内の諸役を務める郷士の家柄で、現在の荒尾市の中心部を保有する大変な土地持ちでした。兄弟の父である政賢は、若い頃から学問や剣術、居合、砲術、軍学などを学び、江戸へ半年間武者修行に行ったこともある人物です。三池藩の干拓事業に関与したり、大火事の後始末を引き受けた結果、宮崎家の経済は困窮したそうです。また、子供への教育も熱心で、家はさながら文武道場のようでありました。宮崎兄弟は、そういった父親と家庭環境の下、世の中を良くしたいという純粋な志を育みながら成長していきました。
玉名郡の有力郷士、宮崎家
宮崎兄弟の生家は、立派な門構えの入り口や茅葺屋根の生家や現在資料館となっている蔵、樹齢250年の梅の木をはじめ、5月には黄色い可憐な花を咲かせる菩提樹がある庭があります。資料館では、玉名郡という地域で大きな影響力をもった郷士の家に生まれた宮崎兄弟が、日本、そして中国を舞台に活躍していく様子が展示されています。
非業の死を遂げた宮崎八郎
宮崎八郎は、父政賢の次男として生まれましたが、長男が幼くして亡くなったため長兄的存在でした。肥後藩の藩校「時習館」で学び、第一次長州征伐では、肥後藩郷士として父政賢とともに出陣しています。明治維新後は上京し、中江兆民らとともに自由民権運動を展開します。明治10年の西南戦争では西郷隆盛に共鳴し「熊本協同隊」を率いて政府軍と戦いますが、八代の戦場で戦死します。26歳の若さでした。戦死の知らせを受けた父政賢は、号泣し家の者に「今後一生官の飯なぞ食ってはならない」と厳命したそうです。その政賢も、八郎の死から2年後の明治12年に脳溢血で死去します。
宮崎家当主として弟たちを支える宮崎民蔵
精神的支柱とも言える父・政賢と、兄・八郎を失った宮崎家でしたが、残った3兄弟は、父や兄を精神的原点とし、それぞれの志を抱くようになりました。八郎の死後、宮崎家の当主となった民蔵は、農村の貧しさを見て土地の平均再分配を目指すために、土地復権同志会を設立します。しかしその思想を危険視した政府は、民蔵たちを弾圧しました。辛亥革命後は中国に渡り、革命を支援するなど、弟である彌蔵、寅蔵の活動を大所・高所から支えました。
中国での革命活動に動く宮崎兄弟
宮崎彌蔵は4兄弟屈指の思想家で、中国の清朝を倒す民権革命を起こし、欧米列強の侵略に対抗する拠点を全アジアに広げるといった計画を持っていました。彌蔵の思想は弟の寅蔵に大きな影響を与え、後に寅蔵が、中国での革命活動を展開するきっかけとなりました。宮崎寅蔵(滔天)は、中国の革命が成功するように尽力した人物です。父や兄たちの影響を受けて育った寅蔵は、様々な活動を経て、中国での革命思想に傾倒していきます。そして共和主義、アジア諸国を苦しめるにする列強への憤り、人類同胞思想など、孫文の思想と合致していることが認識できた寅蔵は、孫文の絶対的支持者として活躍します。犬養毅など、孫文を支援した日本人はたくさんいますが、生涯かけて孫文を支持した人物は少ないのではないでしょうか。
宮崎兄弟の生家を訪れた孫文
孫文は亡命中の明治30年と、辛亥革命後の大正2年の2度、荒尾の宮崎兄弟の生家を訪れています。宮崎家の当主だった民蔵は、亡命中の孫文をこの家に迎え入れ、約2週間滞在しました。民蔵の蔵書には、彼が活動していた「土地復権論」に関わる書物が多数あり、滞在中の孫文は、この書物を読むことに没頭したそうです。この2週間は、宮崎兄弟と孫文にとって、濃密で有益な期間だったのではないでしょうか。2度目の訪問は辛亥革命後に、革命成功のお礼で宮崎兄弟の生家を訪れています。
古木の梅に込められた日中友好の願い
宮崎家は菅原道真を遠祖としており、生家にある樹齢250年の梅の木は、先祖が道真ゆかりの太宰府から移植したと伝わる古木です。臥龍梅に似たような趣のあるこの梅は、孫文がこの家を訪れた時に、記念撮影の背景とされています。荒尾市では辛亥革命百周年事業の一環として、この木から接ぎ木し育てた苗木を各地に配布しています。これらの苗木が、日中友好の象徴として、世の中に広まることを願いたいものです。
生活は困窮しながらも、志を貫く
宮崎家は、たくさんの土地や財産を持つ有力郷士でしたが、革命活動にたくさんの私財を投入したため、生活は困窮を極めました。寅蔵の妻である槌は、石炭販売や、牛乳屋、ミシン内職などをして一家を支えましたが、ついに財産を使い果たしてしまい、宮崎兄弟の生家は、他人の手に渡ってしまいました。宮崎兄弟と友好的であった中華民国から、買い戻しの資金を提供されたこともありましたが、最終的には荒尾市が買い戻し、歴史的施設として一般公開されることになりました。そして、宮崎兄弟の生家は、孫文を慕う中国や台湾の人々にとっては、孫文ゆかりの地として大切な場所になり、日本国内外から多くの来訪者を受ける観光地となりました。
宮崎兄弟の生家を訪れてみましょう
幕末の反骨精神あふれる郷士の家で育った宮崎兄弟は、それぞれが大志を抱きます。とても純粋な気持ちで、自分たちの理想を追い求め、孫文を支え、中国大陸での辛亥革命の成功に貢献しました。欧米列強諸国が、植民地化政策を進めていた頃、中国やアジア諸国の自治独立に奔走した日本人が数多くいました。彼らは、アジア諸国の植民地解放と民族自決による共存共栄を理想としていました。この理想は、国際紛争の絶えない21世紀を生きる我々にも、大切なものではないかと思います。梅や牡丹の名所でもある宮崎兄弟の生家に訪れ、宮崎兄弟に想いを馳せ、日中友好、さらに世界平和について考えてみてはいかがでしょうか。
コメント